著作一覧 |
m対nとか(と書いた先からお門違いな間違いをしているような気がしてきたが)お話の上でのスレッドは知っているが、実際のところpthreadを使ったプログラムを書いたことはない。Win32スレッドならいやというほど書いたが。
しかし、pthreadを使ったプログラムをもしかしたら書く必要がありそうだ。
ここは一発、何か本を買って読んどくかなぁとアマゾンを探す。
Pthreadsプログラミング(Bradford Nichols)
というのがすぐに見つかるが、なぜ芋虫なのかと考えてから、ああ、蚕か、そりゃ絹だ、と。
で、この商品を買った人はの中に、
マルチスレッドプログラミング入門 (サンソフトプレスシリーズ)(ルイス,ビル)
というのがあって、こっちのほうが良いかなと一瞬思ったが、POSIXはPOSIXだろうし、しかし、構造云々とか書いてあるのを読むと、上で聞きかじったm対nとかの過去の捨てられた話が延々と書いてある可能性もあり、それはあまり嬉しくもなく、結局どうしようかと、とりあえずthread_pthread.cを眺めて、thread_win32.cのnative_thead_createとのコード量の差にうんざりしてしまった。
うんざりはしたが、thread_win32.cとthread_pthread.cを見比べれば、どうにでもなりそうな気がしてきた。っていうか、POSIXだろうがWin32だろうがスレッドはスレッドで、APIが違うだけだろう(意味がまったく異なるってこた、たとえば.NETの属性とRubyの属性みたく、は、ないだろう)から、この2つを見比べればどうにかなるだろう。
で、結局、買うのは見送り。
土曜には(もう一昨日のことだ)、文化村という名の村に、バレエが来るというので、観に行った。
熊川哲也のカンパニーのピーターラビットがお目当てである。作ったのはアシュトンで、アシュトンは真夏の夜の夢があまりにおもしろすぎるので、僕は好きだ。
それと、もう1つ、熊川哲也が自ら放蕩息子になって飛ぶというので、それも楽しみではあった。
楽しみではあったが、不安もある。プロコフィエフだ。もう、頭の中で弦楽四重奏でチャンチャーカチャラララチャラララチャラララフーギョフーギョピーポーと、ピーターの主題とか(しかも、必ずドニラバンの顔が浮かぶ)、ブッフォーッフォフォーフォフォフォフォフォとかファゴットのお爺さんとか鳴り響くのは条件反射でしょうがないのだが、この人の作品には感心した試しがない。モーツァルトのような天才タイプの人なんだろうなぁとは思うが、逆にいえば、そのくらい好きではないということだ。
プロコフィエフ:交響曲第5番&ピーターと狼(オーマンディ(ユージン),フィラデルフィア管弦楽団)
(昔から気になっているが聴いたことはない。オーマンディは色彩表現が良いからきっと良いだろうし、ボウイが語っているんだからそれはおもしろい可能性が高いわけだ。というか、おれが子供のころ聴いていたのは誰のバージョンなんだろうか)
案の定だ。寝ちまった。最初の出発まではいいんだけど。
知らずに、なんかルオーみたいだなぁとか観ていて、あとでプログラムを読んで、本当にルオーが舞台美術を一晩ででっちあげたと知るのだが、これは悪くない。なんか真ん中がそびえたつ背景。
水色の服を着て、放蕩息子がぴょんぴょんとび跳ねる。
で、友人たちが待つところへ行くと、9人の壁から手が伸びて、さらに誘惑者が出て来て、放蕩息子が意識をなくすころに、おれの意識もなくなって、気づくと身ぐるみはがされて這いながら帰路に着くところだった。
最後、親父の歓迎のところの音楽は、それは美しい。プロコフィエフの才能はまぎれもない。
プロコフィエフ:交響曲第4番(改訂版)/バレエ音楽「放蕩息子」(クチャル)
好きではないので、戦争ソナタ(グールドのスクリアビンの3番の裏に入っている)と、チャンチャンチャララのピアノ協奏曲とピーターしか聴いたことはないので(追記:良く考えたらイワン雷帝のチャンチャチャチャカチャカチャー・チャチャチャチャチャチャチャチャチャーは大好きなので、これを一番なんども聴いているのだった)、耳学問で知っているだけの、良く聴く言説、パリで調子に乗って鋼鉄の音楽とか作ったころは、ただのバカだが、ロシアに帰還してから素晴らしいというのを、おれも素直に納得してしまった。放蕩息子が帰還したころプロコフィエフもソ連に帰るつもりになってたそうだし。
鋼鉄の音楽か。
無限大の幻覚~メタル・マシーン・ミュージック(紙ジャケット仕様)(ルー・リード)
(実は、わりと好きだったり。灰野敬二とかも)
で、気を取り直してピーターラビットだ。
ピーターラビットの絵本 全24巻 贈り物セット(ビアトリクス・ポター)
薄い幕の向こうにセメントっぽい階段(とわかるのは右手に買い物籠が置いてあるからだ)の最下段にネズミの夫婦(名前は忘れた)が腰かけているところから始まる。
もう、その瞬間から、心が高揚する。こうじゃなくちゃな。
はりねずみおばさんは、ハンカチを忘れる子がいないから(人間は登場しない)単にそこらじゅうで洗濯物を集めるだけだったりするし、あひるおばさんとキツネのエピソードでは犬は鳴き声だけだけど、ネズミの夫婦が人形の家で大暴れするところで、ロウ細工の料理と格闘するところはマンクスのドンキホーテの最初のサンチョパンサの追っかけっこの音楽で(アシュトンが選んだんだろうが、うまい)、その後2階で布団を盗んで階段をすべり降りたり、で、シルエットで猫が大写しになって、ナトキンはフクロウのばかでっかな張りぼてに追っかけられて左に引っ込み、しっぽが舞台に飛んで来て、フィッシャーどんは見えないでっかな魚と格闘した末に右手の奥にぽちゃんと飛び込み(水しぶきの表現がきれいだった)、ピーターは何しろ人間が出てこないと大して役に立たないので単にキャベツを拾ってうろうろするだけだが、(踊りを踊りまくるのはフィッシャーどんと、アヒル奥さんと、ピグリンと名前忘れたけど閉じ込められていたメスブタと、ナトキン)、というか、ピグリンのお母さんのばかでっかな顔のかぶりものが見事な造形で、これだけ楽しいバレエってのは、なかなかお目にはかかれないんじゃなかろうか。というか、ダンサーは大変だろうな。
これはもう着ぐるみの饗宴。饗宴も饗宴、アルカンのイソップの饗宴なんか目じゃないくらいの大饗宴。
実に楽しかった。また観たいもんだ。
ピーターラビットと仲間たち【ユニバーサル・セレクション1500円キャンペーン/2009年第4弾:初回生産限定】 [DVD](ブレンダ・ラスト)
イギリス人が愉快なのは、この天下にまぎれもない、ばかみたいに読まれている子供向けの絵本が、情けも容赦もなく、現実的だということから、想像できる。
たとえば、ピーターラビットには父親は、いない。いとこのベンジャミンにはいるんだけどな。ベンジャミンの父親は孫をどっさり連れて、マクレガーさんの家のゴミ捨て場にキャベツをあさりに行って、昼寝してしまう。で、子供たちはシチューにされそうになる。
で、ベンジャミンと奥さんが助けに来るんだけど、子供が多すぎて全員助かったかどうか、確認できない。
ではピーターのおやじはというと、とっくの昔に、マクレガーさんにシチューにされて食われたという設定で、「終わり良ければすべてよし」というのが口癖だっということだけが、繰り返し繰り返し語られる。
ピグリン(豚だ)の家では子供が増え過ぎて生活に困る。
ピグリンのお母さんは、ピグリンと弟に伝える。
「明日から市場に雇われに行くんだよ」
かくしてピグリンは、市場に就職するつもりになって、出かける。でも、普通に読めば、それが食肉市場に、豚肉として雇われる運命なのは明らかだ。
「本当は、ぼくは、市場には行きたくはないんだ」
とか泣きごとをたれるが、しょせんブタだから、食われるとは思っていないようだがな。
でも、鶏小屋へ行くと鶏たちが、「ソーセージ!」とか叫んだり。
とにかく、情け容赦なく、登場人物たちが、ただの食いものだということを、これでもか、これでもか、と書きまくる。
ちゅーちゅー奥さんの家にハチが巣をつくってやっかいなことになる。奥さんは追い出そうと頑張るけど失敗する。そこに勝手にカエルのおっさん(フィッシャーどんとは違う人)がやってきて、はちみつを探してうろうろする。
そこにちゅーちゅー奥さんが帰って来て、怒る。
そこにハチがやってくる。
いただきまーす、とカエルは舌を延ばしてハチを食べる。ヤメテーとちゅーちゅー奥さんは失神しそうになる(何しろ、さっきまで、人として、「お願いだから家から出て行ってちょうだい」と交渉していたわけで、奥さんにとって、ハチは食べ物ではなく、同類だ)。
おれは、これは正しい子供の本だと思うんだ。
実際、世界中で(日本でも)子供の本として受け入れまくられてんだし。
食う、食われるってのは、やはりきちんと押さえておきたい、子供のための初等概念だ。
というわけで、かちかち山だって、タヌキを食おうとしたら、逆襲されておばあさんが食われたっていいと思うんだけどね。
ジェズイットを見習え |
私は,どちらかというと m対n とかの実装方法が沢山書いてある本が欲しかったんですが,どちらも pthread の使い方が書いてあるだけだったような.
そうなんですか。ちょっと意外ですね(SUNのほう)。