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池袋へ道化師と田舎騎士道(と珍しく日本語題を利用している)を観に行く。
これはものすごくよかった。
アントネッロ・パロンビのカニオとトゥリッドゥさんが猛烈に良かった(というか歌手はみんな良かった)のだが、演出の妙と劇場の使い方が実に見事で舌を巻く。
まず会場がコンサートホールなのでオーケストラピットがない。
ピットがないから、客席前列を取り外してそこをオーケストラの位置としている。ただ舞台のほうが高いし、舞台真上の反響板が歌手のほうにあるので音のバランスが取れているのだと思う。歌手の声がオーケストラに飲み込まれるようなことはなかった(とはいえ、指揮者も楽団も相当音作りには苦労したのではなかろうか)。
で、舞台真上の反響板がオペラハウスと違って随分下にあるので、そこに字幕を映すのだがこれがめっぽう読みやすい。舞台の両脇や異様に高いところにあるのと違って、舞台と同時に十分に目に入る。
半分コンサート形式のようなオペラなのだが、そうはいっても舞台装置(なんかコンクリの廃墟っぽい)があって、そこを大量の黙劇の人たちが芝居を大阪に移し替えてなぞる(馬車屋はトラック運転手とか、道化師一座が大衆演劇の一座とか、シルヴィオが会社員か公務員)うえに、舞台装置の壁に大阪弁訳が表示される、などなど見せるための工夫が実に生きている。
一か所ちぐはぐなのは、途中で道化師-カヴァレリア・ルスティカーナ(というか、なぜ大体においてこの順だと思うが、なぜなのだろうか?)の順でかける予定をカヴァレリア・ルスティカーナ-道化師の順にしたということで、道化師の最初に大阪弁字幕の説明が来ることだった。
順番を変えた理由は一目瞭然で、最後の喜劇は終わったでカニオが去るシーンはどう考えても全体の最期にふさわしい。(あと、歌手の力配分でこれを前半に持ってくるのは大変過ぎだろうとも思った)。
とにかく観ていて実に楽しい。
おそらくそれは情報量の爆発にあるのだと考える。
完全に視界に入る英語の字幕、日本語の字幕、大阪弁の字幕、黙劇、歌手(かれらも芝居をするし黙劇者と交代したりもする)の演技、ピットがないので指揮者の指揮っぷり(序曲終わってすぐの唯一の民謡っぽいところは指揮をしない)、演奏者の演奏っぷり、すべてがマスカーニのばかばかしいほど美しい(虫歯になりそうだ)音楽と同時に流れ込んでくる。これはおもしろい。こんなにおもしろいとは。
こういう体験はしたことがない。とはいえ、演奏や演出がだめならどれだけ情報量が多かろうがうんざりするに違いないので、見事な歌手陣、黙劇陣、舞台装置、演出、指揮、演奏、曲があってのことだろう。
びっくりするほど得難い体験をした。
トゥリッドゥさんが殺されたは母親。バイネームの歌手にいちいち日本語名(ルチアが光江のように意味の場合もあれば、トニオを富男のように音の場合もある)を付けているから、農婦とかの名無しを出したくなかったのかなとか思った。
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