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さて、ポストマンのとことん楽しむ人たちを読了した。確かにおもしろかったが、最後の最後で意味をとれなかったりもして(マザーテレサの表彰とかあったが、満員の客席は最後の瞬間だけを待っている。そしてメリルストリープが出てくると一斉に大歓声とかいうくだりとか)まあ、いろいろ。
Amusing Ourselves to Death: Public Discourse in the Age of Show Business(Postman, Neil)
読みながら、「一億総白痴化」?とか思うときもあったが、
自ら能動的に活字を拾い上げてその内容を理解する行為であり……これに対して、テレビは、単にぼんやりと受動的に映し出される映像を眺めて、流れて来る音声を聞くだけである点から
というような、だったら能動的に視聴すりゃいいのか? みたいなツッコミが入るような内容ではなかった。
そういう意味では、ポストマンは白痴番組はOKと考えていて(娯楽を否定しているわけじゃない)、むしろ、そうでない番組がまずいという論議をしているのであった。
そういう点から、何がまずいかというと、おそらくクイズ番組タイプはもっとも好ましくないということになりそうだ。もちろん、トリビアはトリビアでよいのだが、あるテレビ的にネタになる断片のみを取り出して、そこをクローズアップすることで、重要なものが抜け落ちるというのはありそうだ。
で、次の本として買っただけ状態だったサイモンシンを読み始めて、ああ、これもそうだよな、と思い当たる。
暗号=スクランブルという短絡的な思い込みってのは、まさに、暗号のおもしろさのある特徴的な一面だけがクローズアップされるからだろう。
おれも、ルパンやら江戸川乱歩やらで(黄金虫ってのもあったな。ポオだ)、暗号というものの存在を知った口だからよくわかるのだが、ネタとしての暗号というのは、ある秘密の文章があって、それを読むにはどうすればよいか、という点だけしか見ないのであった。
発信者の特定は済んだところから始まる。たとえば海賊クックが宝のありかを書いた手紙、とか、黒手組が脅迫に使った手紙、とか。そして知恵を使って秘密を解く。パズルクイズルだけど、これは暗号の一面に過ぎないわけであった。
暗号は最初の時点から、発信者の特定が肝心だったはずだ。カエサルからの指令じゃなければ、軍を動かしたりはできないだろう。仮に手紙が奪われた場合に備えて作戦の内容を秘密にするのは当然としても、それ以上に手紙の出所がカエサルその人だと特定できなければお話にならない。そして、内容がすり換えられていないということも保証されなければならないわけだ。
でも、お楽しみとしての暗号は、そうではない。発信者は特定した状態で、挑戦者として中身を読む、その一点だ。そういうふうに暗号というものを知って、軌道修正がかからなければ、それで終わりだ。かくして、見た目が平文でなければOKみたいなことが平気で言われたりするのだろう。
テレビ的な表現というのは、そういうもので、それはまずいというのがポストマンの主張で、なるほど、と納得するのであった。
あと、コンピュータ教材についての、パパートと森毅 対 その他の先生という話も思い出す。
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