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ルネドーマルの類推の山を読んでいるのだが滅法おもしろい。
20世紀前半期の作品で、一応シュルレアリスムの系譜に属するらしいが古典SFの類と考えた方が良いかも知れない。
山岳ライター(なんだかよくわからない)の主人公が寄稿した文章に対して、謎の男から激烈な手紙が届く。本人、何気なく書いた想像上の山の話だったのに、その手紙によれば実在するから一緒に登ろうという内容だ。
訳が分からなくて会いに行くと、器用貧乏を絵にかいたようなマッドサイエンティストで、地上にはまだ知られていないエベレスト(今の言葉でチョモランマ)ですら足元にも及ばない山がそびえているから、登らなければならないと誘われる。
なぜなら、それは類推から導かれるのだ。
おもしろそうだと思いながらも帰宅した主人公は、(そんな阿呆な話はないよなというニュアンスを多分に交えて)妻にその話をする。と、妻は当然、登らなければならない、と言い出す。
あれよあれよというまに言語学者、山岳画家、科学者と形而上学者の兄弟なんかを集めて冒険隊が結成されて、南太平洋の地図に無い島へ向かうことになる。なぜ、そんな高い山が聳え立つ島が地図にないかというと、光の屈折によるものだとか、もっともらしい説明が入る(ところが、古典SFっぽい)。
誘ったヘーゲル主義者のイタリアの靴職人は弁証法によって、その山が存在しないことを証明したらしき超長文の手紙で断りを入れてくる。
なんか、無茶苦茶におもしろい。
が、はて、類推とは? と気になった。
原題を見ると、Le Mont Analogueで、確かに類推の山としか訳しようがない。
(この字面をみて、あらためてデジタル・アナログのアナログが類推語源と知って、ちょっと驚き、ではデジタルとはと調べたらdoigt(指)で測る、軽量するという意味だった)。
それで、あらためて類推ってなんだ? と考えてみる。
類推は射影で、あるものAとあるものBが似ていることから、Aから得られるaと同じくBから得られるbがあると考えることだ。
したがって、発見のためのメソドロジーで、哲学の領域だ(と、今、初めて意識した)。
フランス革命について考えてみる。王様は~する権利がある。おれは第3身分なので~する権利がない。でも待てよ。王様とおれは同じ人間だ。当然おれにも~する権利がある。革命だ、権利を寄越せ。
この哲学の欠陥は、発展性に欠けるところだ。何かモデルがないと真に新しいものは生まれてこない。
音楽では、ロンドが相当する。スクリアビンがソナタ形式を捨てた後の作品について、高橋悠治が、ビルの窓から次々に顔が出てくるのでおもしろいことはおもしろいが、全部同じ顔だ、みたいなことを書いていたのを思い出す。それが類推だ。
演繹は類推の特化したものと考えられる。なるほど、フランス的だな。
途中で降りるイタリア人の靴職人の弁証法はそれとは異なる考え方をする。弁証法は当然、高校生のころに学んだので良く知っている。類推とは異なり、相違点に着目し、その解決を考える。
王様は~する権利がある。おれは第3身分なので~する権利がない。同じ人間なのにこれは矛盾だ。したがって革命しなければならない。
ベートーヴェンが生み出したロマン派のソナタ形式は、クラシックのソナタ形式と類似ではあるが相当違う。中間部で徹底的に荒れ狂うからだ。そのため、再現部はすでに提示部とは全く異なる様相となる。
これは弁証法に近い。確かにドイツ風だ。
と、考えると帰納はまったく異次元的だ。まさに非ヨーロッパならではだなぁ。自由意志ありきだ。(この後、なぜゴドウィンが最初なのかとか、libertyとfreedomの2つの概念から自由が構成されるのに対して、ヨーロッパにはliberteしかないのか、といった方向に考えが進む)
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