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ツィッター眺めていたら、シュヴァンクマイエルが挿絵を描いた怪談について書いてあるものがあって、おれも欲しくなって購入。
奇書だった。
ハーンについては松江の居室を見たこともあるし(まさに箱庭のような庭をうかがう落ち着いたたたずまいの部屋だった)、坊ちゃんの時代での描かれ方が美しくて(夏目金之助を東大が雇うために代わりに追い出されたような書き方になっていたような記憶がある)まず好きだ。
坊っちゃんの時代 : 1 (アクションコミックス)(谷口ジロー)
(山田風太郎の明治物に影響を受けたと思われる、実在人物の年表を並べてあり得た出会いとすれ違いの過去を再構成した作品としてはうまく書けている。谷口ジローの描く薄幸のでも幸福そうでもあるラフカディオ・ハーンが実に良い味を出している)
怪談自体は小学生のころ、近所の本屋で角川文庫版か何かで読んだ。まあ、茶碗の中が最高ですな。
シュヴァンクマイエルはクエイ兄弟の師匠格とあって、六本木のシネヴィヴァンに短編大集合みたいなのを観に行った記憶と、DVDでアリスを買ったけどなんか封も切らずにどこかに埋もれてしまったていどの愛着である。クエイ兄弟ほど洗練されていなくて気持ち悪いので、好きなんだけどあまり愛着はないけど、本になっていれば別物ではある。
アリス 【HDニューマスター/チェコ語完全版】 [Blu-ray](クリスティーナ・コホウトヴァー)
(さっさと見れば良いのにまだ見ていないというか、持っているのはBlu-rayではなくDVD)
原書はハーンの怪談とか虫のやつとかを適宜選んでチェコ語に翻訳してシュヴァンクマイエルに挿絵を描かせたというチェコの作品で、それを国書刊行会(表の顔は幻想とオルタナティブな文学だけど、裏というか本業は総会屋だというのを30年ほど前に見たけど今もそうなのかな? というか、今は総会屋という職業は成立しないと思うので、良くわからん)が平井呈一の訳を使って日本語版にしたものだ。
平井呈一は永井荷風の弟子筋の翻訳家で、怪奇小説好きなら創元のアンソロジーや、牧神社のアーサーマッケン全集の訳業で知らぬ人はいない人。多分、現在のつまらない風潮の下では戸田奈津子スタイルとして排斥されそうな訳業だが、逐語訳ではなく、意味と時代背景、主人公の言い回しの癖、雰囲気を明治初期から昭和初期にかけての江戸の文化が多少残る東京のそれなりに教養(当然、その教養は江戸の文学から明治に輸入された海外文学ということになる)がある人間(爺さんが江戸言葉を喋るとかだと当然、その文化が残る)の文学として再構築したもので、おれは素晴らしく好きだ。ビクトリア朝の黄昏に似合うではないか。
という、癖のある人大集合な本なのだから、つまらんわけがない。
たとえば訳業。冒頭の誰でも知っている耳なし芳一のはなしの
その地尻の、浜に近いところには、ひとくるわの墓所も設けられて、そこには、入水した天皇のみ名や廷臣たちの名前をきざんだ、幾基かの墓碑が立てられ、毎年忌日になると、かれらの菩提をとぶらうために、さかんな法会の式がいとなまれたものである。
といった1行にしびれまくる。リズム、語彙、ひらがなと漢字のバランス(ただし編集者が手を入れている可能性はある)、読点の位置、名詞と動詞のバランス、すべてが美しい。声に出して読んでみれば、圧倒的な律動感に讃嘆するはずだ。
選択はわかりやすい。明らかな怪異談を選んでいる。茶碗の中がないのはまあ当然ではあろう。
で、シュヴァンクマイエルだが、冒頭、1ページを使って、創作の方向について自ら語っている。
古い西洋の怪奇譚の挿絵に対して、日本の怪物の画をコラージュすることで、東と西の怪異が唐突に衝突することで生じる超現実を提示する、ということらしい。
おれには、エルンストの出来損ないに見えなくもない。
カルメル修道会に入ろうとしたある少女の夢 (河出文庫)(マックス エルンスト)
というか、ここまでコラージュを全面的に押し出した書籍としてまとまった作品というのは、エルンストくらいしか知らないからだ。
ただ、エルンストはそこで物語を展開させようとしているのだが、シュヴァンクマイエルは居心地の悪さ(それはときどきはおっかなさだし、ときどきは気持ちの悪さである)の演出に専念している。
日本の化け物に転化されているのはチェコのポレドニツェとかヴォドニークとかいった連中らしい。
次の狼の化け物らしきものが大首の幽霊に、襲われる小僧が黒坊主に転化した画がわかりやすい。ただし、なぜこれが芳一が寺を抜け出し鬼火のが飛び交う墓地の中で壇ノ浦を詠うところの挿絵なのかは謎である(というか、おそらくシュヴァンクマイエルはいちいち書籍の文章側に合わせようとはせずに、単純に言われた枚数を作っただけではなかろうか。でも、衝突なのだからそれで良いのだろう。
美しい書籍(文章、話、挿画、装丁)を楽しむには素晴らしい本だ。
子供に誘われて、Le vociの劇場支配人と魔笛。
劇場支配人という歌劇の存在そのものを知らなかったため、魔笛は長すぎるので翻案して劇場支配人というつなぎの新作(新演出)のフレームワークの中で魔笛を演じるのだと完全に勘違いして観始める。
すると、序曲が全然聞いたこともない曲なのだが、まごうことなくモーツァルトで、完全に混乱する。
指揮者はなかなかのマエストロだし、オーケストラも良い音を出している。
それにしても、劇場支配人は別に知らなくても全然人生を損しない曲だった。おもしろいことはおもしろい。
魔笛は、想像よりも遥かに良かった。
夜の女王がどうも声がかすれるのが気になったがコロラトゥーラは良くて、あまり体調が良くなかったのだろうか。
パパゲーノが声がでかくてこれまた見事だし、タミーノは曲がまったく好きではないので退屈するのだが歌手は立派。ザラストロも同様。なんか良いものを観ているぞ、と気づく。
パパゲーナが老婆から変身すると、これまで見たこともないほどパパゲーナそのもので、目を奪われる。
というのもあって、パパパが実に泣ける。こんなに嬉しくも感動的なパパパはそうそう観ることはできないのではなかろうか。
子供がパパゲーナだけはオペラではなくミュージカルの文脈を演じていると言っていたが、確かにそうだったかも知れない。
で、考えてみると、ダポンテと魔笛合わせて、バルバリーナ、デスピーナ、チェルリーナ、パパゲーナの末尾ナの4人は、異物感がある。歌劇の中に伝統芸能(ここでおれは道化劇のコロンビーナを想起しているが、コロンビーナも末尾ナだな)の女歌手が紛れ込んでいるみたいだ。でも、その4人がいるからこそ、ダポンテの3作と魔笛は素晴らしいとも言えるのではなかろうか。
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