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妻に誘われてシネパレスでチョコレートドーナッツ。
以前何か聞かされたような気がするが、まったく覚えていなかったので、完全に事前知識0で観る。
いい映画だった。ざらっとした手触りで初期の手持ちカメラで街をうろちょろ撮影していたころのスパイクリーや、幸福な記憶を8mmのぼやけた映像のカットバックや場合によっては背景への合成で技巧的に示すところではパリステキサスのヴェンダースの記憶が甦る。悪いはずがない。
1979年というクレジット。
始まると侏儒かな? と思わせるバービー人形のようなものを持った年齢不詳の人間が歩いている。さっぱりわからないまま(何しろ事前知識が0なので、この後、バービー人形がいきなり口を開けて襲い掛かって来てもおかしくはない)場面が変わり、少なくとも衣装倒錯している3人の美女っぽいクィアーのステージに変わる。口パクだと気づくまで風変りなまま続く。
あまり大したことはない場末のバーだということがわかる。カウンターにまじめそうなおっさんが腰かけ、3人のうちの1人とアイコンタクトを交わす。
はて、最初の侏儒とどう関係するのかさっぱりわからないまま、控室にシーンが変わり、3人が色目を使ってどうだとか、ピノキオやらのジョークを言っている。と、そこに先ほどカウンターに腰かけた男が訪ねてくる。
次のシーンは車の中で、頭を与えている(おお、はじめて利用できたぞ。ルーリードのワイルドサイドを歩けで覚えた言い回しだ)ところになる。
TRANSFORMER-UPGRADED VERS(REED, LOU)
警官がやって来て、一触即発の事態となる。男は自分は検察局の人間で、もし発砲したら5秒で終身刑となる、お互いに見なかったことにしようと取引する。
テンポは良く、すべては映画として流れる。
大音量でテレグラムサムが流れている。アパートの廊下。
そこに先ほどの歌手が帰ってくる。人形が廊下に落ちているので拾い、思い切ってドアをたたく。やつれた女が出てくる。人形を渡し、子供がいるなら、こんな大音量は耳に悪いと忠告する。だまれおかま野郎とののしられる(が、言葉はマザーサッカーだった)。
男、部屋に戻る。広いベッドがある。音が相変わらず流れている。
朝になる。ブノアが家賃を取りに来て男を起こす。12ドルしかなく、明日払うと言って追い返す。相変わらず大音量で音楽が聞こえる。
ドアが開いたままだ(夜の間に女が外から来た男と出ていくシーンがあった)。
たまりかねて中へ入ってスィッチを切る。振り返ると仰天する。
ベッドの上にダウン症の子供がいて人形にしがみついている。
ここで初めて冒頭の侏儒がそうではなくダウン症の子供だったことがわかった。腹が減ったという。
行きがかり上、部屋へ連れていきとりあえず飯を食わそうとする。喋れるか? というような会話がどうにか続き、子供の名前はマルコとわかる。男の名前はルディとわかる。何が食いたいかと尋ねるとドーナッツと答える。太るし体に良くない、と言って結局冷蔵庫の中にあったチーズと引き出しから取り出したクラッカーを出す。子供はなかなか手を出さない。
困った末、ルディは昨晩の男が別れ際に渡した電話番号に公衆電話から電話する。友人がそれを見つけてからんでくる。このシーンで本気で子供に何かしてやりたくなったことが示される。
ポールはルディに家庭局にまかせろと言う。ルディはこういう子を施設に入れても良いことは何一つない。見た目や母親はこいつが選択したことじゃないんだ(という説明はこの後の裁判の時に明らかになる)。
その後は転げる石のように事態は進む。
検察官(ポール)は、元は生命保険のセールスマンだったが、大志を抱いて法律を勉強して、今の地位についた。離婚した理由は明らかではないが、性癖がからむのかも知れない。惚れた弱みもあってルディのマルコを育てたいという意志を尊重することにする。
二人は麻薬所持で監獄に入れられた母親から入所中のマルコの親権を得てポールの家で生活を始める。
途中、ルディが自分語りを歌で示すシーンがあり、その歌が良い。実際に良いだけでなく脚本上も良いためにポールは口パクではなく自分の声で歌うことを勧める。まずはデモテープを作れ。金も時間もないよ。
最初の食事のシーンでポールはたまたま家にあったチョコレートドーナッツを出す。マルコが嬉しそうに食べる。ドーナッツは体に悪いという持論を引っ込めて見守るルディ。
ポールはマルコのために部屋を整えて、豚のぬいぐるみとか適当におもちゃを用意して気に入るかどうかどきどきしている。マルコは泣き出す。嬉しかったのだ。ルディが嬉しいなら泣いていいぜと抱きしめる。
ポールはルディにオープンリールのテープレコーダをプレゼントする。早速デモテープを作る。テープを発送するために、ルディがキスしながら封筒に入れているのを見てマルコが聞く。何してるの? 幸運のキスだ。お前もしてみろ。このテープが当たりになるぜ。
ポールのいる事務所の人間関係が見えてくる。秘書はポールに気がある。上司はポールをかっている。が、顔つきからしてどう見てもホモフォビアだ。秘書がポールを昼食に誘うのをみて安心するところが実に気持ちが悪い。1979年だ。
医者に連れていき、目がほとんど見えていないことを知ってメガネを作る。そして学校にマルコを入れる。教師はルディとポールの関係(ポールは公的にはルディをいとことして紹介しているのだが、relationshipという言葉がダブルミーニングなことが何度か示される。そういうものなのか)ことをマルコが二人のパパとして絵を描いたことから恋人同士であることを知っている。が、それはそれという考え方の持ち主だ。
結局、上司がポールを値踏み(この時点では好意的であり出世のための糸口を用意している。が、その一方で誰かを引き上げることは自分に対するリスクにもなるのだから、当然といえば当然)するために、パーティに呼ぶ。そこでポールとルディの関係に気づく。
翌日、警察がやって来てマルコを「保護」し、ルディは監獄に入れられる。ポールは馘首される。
裁判になる。裁判官は女性。証言を集めていくと、二人がマルコをまじめに愛情をもって育てていることがわかる(教師や保護官の黒人女性が好意的な証言をする)。しかし検察側の弁護士により、ハロウィンの時の仮装にもかかわらずルディがマルコの前で女装したという事実(子供への悪影響の無考慮)と、元から持っていた(古さから母親の子供のころからの持ち物を唯一のおもちゃとして与えたからだろうと想像できる)バービー人形がマルコのお気に入り(=女性的な趣味の押しつけ)という論理が組み立てられてしまい、マルコは「保護」されてしまう。
法律家でもあるポールはルディの励ましもあって、闘争を決意する。マルコのような本物の弱者のためであり、自分たちのような差別された存在のためである。
ルディのデモテープを聞いたクラブのオウナーだかフロアマネージャだかから電話が入る。まずは週2日の契約で歌手として仕事を得る。
最終的に黒人の弁護士のもとへたどり着く。白人の弁護士からは相手にされなかった(負けることがわかっている裁判という面もあるはず)からだろうとか、いろいろ言われるが、弁護士も乗り気になる。このシーンは何気ないが、実に映画としてうまい。お互いの立場が映像としてうまく示されている。この作家は相当勉強しているのではなかろうか。
ここまで見た時点で、裁判長(非常に尊敬されているらしい)は女性、最後にたどり着いた辣腕弁護士が黒人ということで、2つのマイノリティが70年代末には認められていることを示しているのかも知れない。
弁護士と二人は、過去の判例から麻薬中毒の親が親権を回復した例などを見つける。合衆国憲法は、特別扱いによる権利の毀損を認めていないからだ。であれば、同性愛者ということが理由で親権を取り上げて良いわけはない。
裁判はあっけなく片がつく。破棄されたのだ。上司が手を回して、マルコの母親と司法取引の一種だと思うのだが、親権の回復を申し立てれば早期釈放することにしたからだ。当然、本当の親のほうが強い。ここでルディがそんな麻薬中毒の女がどうしたと言うのだが(最初の頃の女性のマルコに対するネグレクトを知っているこちらの立場からはその通りではあるのだが)あまり感じが良いことではないなと思った。
早速母親はマルコを廊下に追い出す。さすがに目の前でするわけにはいかない。
マルコはそのまま街へ出ていく。冒頭に繋がる。
裁判官や元の上司や最初の裁判の弁護士などにポールからの手紙が届く。新聞記事の切り抜きが入っている。マルコという子供が3日間放浪したすえ橋の下で凍え死んでいるのが発見された。
みなさんはご存知ないかも知れませんが、本当に良い子だったのですよ。その子に対して愛情をもって接する家庭で育つ権利が認められていればこういう不幸は起きなかったのではないでょうか。良く考えてみてください。
何か所か特に素晴らしいシーンがある。おもちゃや本を並べた棚の前でマルコが立ちすくむシーン。ルディが歌うシーン、チョコレートドーナッツを食べるシーン。
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