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東劇のメトライブビューイングで蝶々夫人。蝶々さんはグレゴリアンなので当然のように観に行く(それでなくともプッチーニは観るのだ)。
素晴らしい。
これまで、ある晴れた日には、ついに狂ったなと思いながら聴いていたのだが、全然違う。
グレゴリアンが役者=歌手と言われる理由も良くわかった。
どう観ていても、ピンカートンが戻ってくることを信じ切っている(物語上、シャープレスが感じている通りの)子供(14歳が3年後だから17歳か18歳だろう)にしか見えない。帰ってくることを確信して、ある晴れた日を歌っているのだから、(そしてピンカートンにそんな気持ちは一切無いことをこちらは知りぬいているだけに)こんなに悲劇的な歌は無い。これまで聴いたどのある晴れた日よりも心を揺さぶられた。驚いた。
演劇的なオペラとして(演出ともども)完全に出来上がっているのだった。
(スズキが吾郎を殴るところの演出の細かさには驚いた)
惜しむらくは(その一方で、水平横並びに結婚式の参列者が登場するところの効果は抜群なので痛しかゆし)花の家に続く坂道を舞台最奥に存在することにしているので、坊主のチョーチョーサーン!という怒声があまりに奥床しく聴こえる点で、ここはたとえば新国立劇場の粟津演出のように舞台の前面のほうから豪快に怒鳴って登場するほうが良いように思う(というか、粟津演出を見慣れ過ぎているだけかも)。
衣装を担当している中国の人(子供は幕間に、色遣いが韓国風と評していたが、中国風だったらしい、牡丹とか)が意図を話しているのを聞くとそれはそれでおもしろかった。確かに全然和風ではないのだが、アメリカで最初に成功した中国人デザイナーとしてのアイデンティティと、西洋人が考える蝶々夫人の日本イメージ(ということは単なるオリエンタル洋式)をミックスした結果の作品なのだった(ご丁寧に、「日本人のジャーナリストから全然和風ではないと言われたけど、だってファンタジーじゃん」とまで説明していた)。
パルンボが退任とかで、ゲルブから記念品を授与されているところを幕間にやっていた(演じていたのか)が、蝶々夫人にちなんで(ピンカートンが興味を持つと蝶々夫人が中身と父親不在の理由を語ることになる)漆塗りの黒い箱を渡した。
まさか、将軍ゲルブ拝領の懐刀ではなかろうなと思わせて、祖先の二体(これもなんか和風ではなく、和風なら位牌あたりにするところだ)が出てきてちょっとおもしろい。
ピンカートンはロンディーネに引き続きテテルマンで、これまた良いピンカートン。花粉症からは完全に抜け出したようだ(花盛りの家の前でさらばを歌うのに)。というか、つばめのときは田舎から出てきた好青年に対してこちらでは現地妻大好きなクソ男と、全然違う役柄を全然違う人間として演じていて、この人も良い役者だった。
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