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なんとなく手元にあったファインマンの困りますを読み、そこで粘膜人間のモダンさについてあらためて考えてみる。
というよりも、冒頭の最初の奥さんについての思い出話は何度読んでも胸を打つ。
手紙ハックとかのエピソードが続き、息を引きとるというのはどのような肉体の状態かを考察しているうちに奥さんは息を静かに引き取ってしまう。仕事に戻り(広島の人達のことは考えるはずもない)しばらくして買い物に行き、奥さんが好きそうな服を見つける。そして初めて涙を流す。
書かれてはいないが、読者はそこで筆者が、プレゼントして奥さんが喜ぶところや、着たら似あってすっかり嬉しくなって二人で楽しく過ごすところとかを想像して、そしてそんなことはもうありえないと不在を実感したのだと理解する。悲しみとは本当にかけがえがないものを永遠に失ってしまったということの実感だ。それを喪失感と呼ぶ。
困ります、ファインマンさん (岩波現代文庫)(R.P. ファインマン)
その実感をいかに届けるかがその文章の表現力となる。
であればそれを逆手に取ることもできる。
そのように表現しなければ、そこにどれだけ大量の不在が生じようが喪失感は表出せず、乾いた時間の経過のみとなる。しかし、ことは簡単ではない。それは事実をたんたんと述べるだけでは表現出来ない。読者は自分の知見に基づいてコンテキストを補間するからだ。
読者によるこの物語への介入を回避するためには、いくつかの手段が取れる。一つは登場人物を異形化することだ。が。粘膜人間の場合、確かに異形ではあるけれど、感情の動きは無理がなく、それが読みやすさの一つの理由だろうが、取るべき行動を取る。したがって、その手段ではない。
別の方法として、異常な事態が次々と発生すれば、読者は異常事態そのものの対して一種の不感症となる。おそらくこちらの手法だろう。
が、実際に読んでいる間はそれには気付かない。というのは、そこでの日常としてあたりまえのこととして(登場人物の視点を使って)表現されているからだ。
そのようにして、喪失感や、昂揚感や、恐怖感や、(ここまで、哀楽怒の効果を書いてみたが、なるほど喜を笑いととらえた場合の感情を適切に効果へ転化するのが難しいことに気づく。笑とは高尚なものなのだな。おそらく)違和感を読者に与えることなく物語を語るのだから、それはすらすら読めるはずだ。おもしろい。
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