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ゲド戦記 1 影との戦い (ソフトカバー版)(アーシュラ・K. ル・グウィン)
子供が図書館から借りてきたので借りて読んだ。
子供はそれほどおもしろくなかったみたいだ。さもありなんと思った。
たとえばハリーポッターみたいな波乱万丈がないし、ナルニアみたいな不思議な生き物がうろうろしてるようなわかりやすいセンスオブワンダーでもないからだ。しかも、主人公自身が明白な正義ではなく(散々、というか冒頭から主人公は賢者で英雄だと書かれてはいるものの、この巻では)、戦いはすべて禅問答みたいな形で行われ、主人公がなぜそうだったのか、と理由を考える。
ありていに言えば理屈っぽいわけだ(あと文体が客観的なところ。主人公が考えているところでさえ、一人称ではなく第3者が観察しているような印象を受ける。ちょうど、ニコラスレイの特別な映画において、常に主人公たちが何か重大な決定をすべきときには、第三者がカットに入っているのに似ている)。
というわけで、おれには滅法おもしろかった。正直なところ、essaさんの名前の由来を調べるたら終わりにするつもりで、全部読む気はなかったのだが、結局、全部読んでしまった。
ちょっとひっかかったのが、オタクの描写で、サイズはネズミといっぱい書いてあるし、見た人はみなイヌとして(最初の描写においても)扱っている。でも、これって、ネコだ。病気で寝てるとハグるところとか、エサを分けてくれることとか。(おれが知らないそういう習性を持つイヌがいるかも知れないけど)
だから、筆者はネコを飼っていて、多分、そのネコと触れ合った感触をもとにオタクのことを書いているんじゃなかろうか。というのは、生き物と暮らすことについての未来からの視点で書かれた個所が、唐突なリアリティがあるからだ。でも、物語として主人に忠実なネコというのは、伝統を外しているし(長靴をはいたネコってのはあるけど、あいつは自分で飛び込み営業をする歩合制の家来だから忠実ではあるけれどイヌ的なありようとは違う)、ネコと暮らしたことがないとわかりにくいと考えて、(ネズミサイズの)イヌとして第3者には語らせているのではないか、と思った。
そのおれが思ったことが正しいかどうかは重要ではなく、そういう、文章表現(書かれている言葉)と書かれている内容(物語そのもの)が微妙に乖離しているという感覚が常に漂っているということが、明確に出ているのがオタクについての描写なのだ。
それに、この物語は現在進行形で書かれてはいない。冒頭に書かれているように、常に未来の視点から過去にあった事実を物語っているのだ。しかし、実際の物語においては、未来がどうなるかは明らかではなく(もちろん、龍王やら大賢者になることはわかっているので、当然、影に乗っ取られることはないというのはわかるわけだが)ゲドの動きに合わせた時制で語られる。これも微妙な差異を生み出している。
未来から過去を物語るということは、実際には発展性がかけらもない言明の連続である。AはBと語った場合、Aは非Bではない、という意味だ。というのは、未来は過去を知っているからだ。その一方で、現在進行形においては、Aは の次にどうなるのかはその時点ではわからない。この語られつつある言葉が常に既知と未知の間をゆれ動くことから生じる微妙なずれが物語りに陰影をつけているのだが、それは読みにくさにも通じる。そこにはすさまじいダイナミズムがあるのだが、それは物語の動きに対しては逆に強い抑制となる。そのため、本来の冒険譚になくてはならないわくわくする感じに乏しく思えるのだ。
#神話的なものを人は分析的に読む。なぜ分析的に読むのかというと、まさに現在(という語られた時点からの未来)と語られている時点でずれが生じているため、言葉が分析的に流れるからだ、と考える。
というわけで、子供は続きを借りる気はないようだ。まあ、そうだろう。筆者はこの構造を突き抜けるほどのストリーテラーではない。
しかし、この作品はいかにも60年代だか70年代だかの上質な英米文学に違いない。というのは、筆者はオタクの個所に見られるように(とおれは考える)その差異を意識して語っているからだ。この話法は記憶にある。たとえばアルトマンがそうだし、そこまでいかないまでもアメリカンニュ^−シネマの上質なものが同じ空気の中で生まれたといえるからだ。プログラムに沿って物語りを流すことで、逆に語ることと語られるものの差異をはっきりさせ、物語られていないものを浮き彫りにする手法だ。
手法は、何かを語るために使う。ここでは語られるものは、物語そのものではない。
もうちょっと大きくなったら、もう一度、読むように勧めよう。すぐれた作品だ。
#しかも、この物語そのものが、言葉にして語られる名前と、語られることがない名前の物語で、(そこは児童――ミドルティーンからハイティーンと考えられるが――文学なので、メタフレームワークを読者に提示しておく優しさを持つからだろう)、きれいな入れ子構造を作っている。見事だと思う。
なるほど。そういう発想はなかったな。確かにそれも納得度が高い。
制度というのは、基本的には経済活動を支えるためにある(というか、そうじゃないものを探すのは難しいから、そうじゃないことをする人に賞賛を贈るわけだが)。
たとえば話題のプライバシーマークの目的。結局、EU加盟諸国を相手に商売するために必要なツールとして制定されたことが、きちんと書かれている。もっとも、EUは本気だったから、そんなことじゃだめだったわけだろうけど。元々、商売のためのツールに過ぎないのだから、経済活動に混乱を招くようなことができるわけがない。
資格ってのも、したがって、多かれ少なかれそういう成り立ちがある。
ただ、保護的な側面は無視できない。この親父は運転免許を持っているから、少なくても道交法の基礎と基本的な運転技術は期待できるだろう、みたいなユーザー側からの判断基準としての側面だ。(誰が判断するかという点に関して開放した話をしてるわけだけど)
それに対して、サプライヤー側からは確かに、この親父は運転免許を持ってるから安心でっせ(アル中だけどな)、というエクスキューズに使えると言われてみればその通りであった。
もっとも、おれは昨日、ゲドを読んだから、影は影として受け入れることにしたのでOKだ(けむにまく文章の終わらせ方法)。
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