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マリアストゥアルダは、観るのも聴くのも初めて。マリアはディドナートで、エリザベートはエルザ・ヴァン・デン・ヒーヴァー(仰々しい名前だがヴァンというのはオランダ系なのだな、南アフリカの人)。
全体を通して聴けば、歴史に埋もれたのも当然な退屈な曲だが、部分部分におおおおおという瞬間と、なるほどシラー(シルレルなのかなぁ)は大物だという物語のうまさがある。
ロンドンではエリザベートがマリアをどう始末するかで頭を悩ませている。セシルの歌は1つ、殺せ。それに対してタルボが宥め、レスター伯(ロベルトダドリー)は救えと歌う。しかしエリザベートはロベルトを愛しているので、ロベルトがマリアを救うことを訴えれば訴えるほど、嫉妬で目が見えなくなる。
ついに、狩場で二人の女王は会見する。ロベルトがマリアへ愛を訴えるので、ついにエリザベートがきれて、夫殺しとマリアを罵る。
ここまで、とにかくぐだぐだぐだぐだ流れるので相当うんざりしている。
ベルカントは美しいイタリア語の歌なのだから、考えてみれば、イタリア語を知らなければつまらないのではないか? そのメロディー、そのフレーズにこの語彙が乗り、歌の翼に言葉が駆ける、そういうもののはずだ。ならば、言葉を知らなければ美しさは半減未満に違いない(にもかかわらず、聴かせるすごい曲やすごい歌手がいるというだけのことだ)。
が、そこでマリアが切れて、たかがアンナボレーナの私生児が何をぬかすか、お前には女王の血は流れていないではないか! と開き直る。もちろん、これでマリアの死は決定付けられるのだが、マリアは言うべきことを言ったので気分すっきりのアリアが続く(その一方で、絶対殺すのセシルや許せるはずがありえないのエリザベートが混じり、すさまじい重唱となる)。
ここは、音楽、演出、ディドナート、反応するヒーヴァー、すべてが完璧で、この数10秒だけで十分に鑑賞の価値がある。
最後、白い衣裳を脱ぐと斧で首を落とした後を暗示する真紅の衣裳となり、マリアはスキャフォールド(幕間インタビューで聞き取れてかつ理解できた単語の一つ)を昇っていく。首を切る前に暗転。
この作品でも、マクヴィカーの演出は素晴らしい。この人はヨーロッパ(イギリス含む)で、前衛演出家に張り合うよりも、メトで中庸路線の演出をしている限りは、見事な才能(か、年齢を重ねてまさに円熟したのか)の持ち主だ。
で、幕間のインタビューで、この作品がシラーのものと初めて知った。
シラーのロマン派音楽家へ与えた影響のものすごさにあらためて感動する。ゲーテより上なのではないか?
というわけで、ぜひとも原作の翻訳を読んでみようと、帰りにジュンク堂へ行ったが、何もない。まったくない。シラーの評伝があるだけだ。(そもそもドイツ文学の棚が少ない)
アマゾンをスマホで検索してもわからなかったが、軒並み絶版なのだ。
マリア・ストゥアルト―悲劇 (岩波文庫 赤 410-6)(シラー)
せめて、群盗やウィルヘルムテルのような有名作でも読んでみるかと思っても、それらすら存在しない。さすがに唖然とした。
で、仮面舞踏会。マリアストゥアルダと違って、こちらは音楽と物語の融合の素晴らしさに唖然とする(カラスのCDを持っているがまじめに筋を追いながら聴いたことはなかった)。ヴェルディって本当にすごい作曲家だ。
中期の作品らしいが物語はそれほどひどくもない。
グスタフという良く耳にする名前の王様と、親友にして協力者の家臣とその妻、反逆の将軍と伯爵の4人のドラマだが、異様に目立つオスカルという道化なのか小姓なのか良くわからないタイコ叩き(配役について、役名からグラスの作品を想起したのはありそうなことだ)がソプラノのズボン役が異様な存在感を出す(最後、仮面舞踏会で王を暗殺するために家臣へ特徴を伝える役割も果たす)。
アルデンの演出は舞台を20世紀初頭へ読み替えているのだが、大体、20世紀初頭へ読み替えた作品にありがちなことだが、これも実に良い演出だった。
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