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イタリア料理の店で、トムハンクスが(多分、ポールニューマンの)息子の部屋に乗り込むところから見る。
って言うか、エンディングが始まるまでトムハンクスだと気付かなかった。スプラッシュとビッグのトムハンクスしか知らなかったからなぁ。ポールニューマンにいたってはタワーリングインフェルノと明日に向かって撃てなわけで、生きてることすら知らなかった。ドレッシングは売れてるのだろうか?
というところから、いかに自分で作るってことが重要かとか(と、ポールニューマンに対比してクリントイーストウッドを念頭におき)。
つい8時間程度前に見て、もうすっかり忘れてしまったが、と書いた端から思い出したがオライリーのオープソ本だな、財界人は100年たったら消えてしまうが(ビルは名前が残っても、ジム(マンジ)とかジム(クラーク)とかが歴史に名を刻むとは思えないとか、)、プログラマーは(たとえばリナスとかRMSとか)は多分100年たっても名が残るんじゃないか、みたいなことが書いてあったのをなんとなく想起する。
もちろん、リリアンギッシュとかバレンティノとか上山草人(ちがったかな? 悪い魔法使いの役でアラビアンナイトとかに出てた人)とか、名が残ってる人もいるけれど、それでもグリフィス、ウォルシュ、フォード、ラング、ガンスその他の作家の名前の残り方に比べれば屁みたいなもんだ。
でも、ポールニューマンから考えが飛んだが、オライリー本との比較で言えば、プロデューサということになるんだろうな。こちらはザナックくらいしかそもそも知らないな。ラウレンティウスは知ってるか。
同じメディア産業でも、映画でプロデューサーと言えば、資金を提供する役回りに過ぎないみたいだが、なんで音楽ではプロデューサーが音を作る役回りの人になるんだろう? カルショー(違うかも、ロンドン)とか、クリストーマスとかクリアマウンテンとかマーティンハネットとか(いい加減、古い)。
毒蝮三太夫。僕もNHK見て好きになって、三冊、全部持ってたりして(しかし、3冊目はまだ読んでないけど—NHKでは2冊目までは見たけど3冊目もやったのかな?)
子供に自分のようになって欲しくないオヤジが、そう思っているということを子供に話すってのは、いやなもんだろうなぁ。ただ、ギャング映画だから、どう考えたって、「坊主、オレのようないかしたギャングになって、マシンガンで敵を殺しまくれよ」なんて言えるはずがないわけだから、単なる予定調和と言えなくもない。
好き嫌いで言えば、ギャング映画は、ジェームズキャグニーがおかしな目つきで暴れまわるやつ(白熱とか)とか、やることなすこと裏目に出て追い詰められてくやつ(暗黒街の弾痕とかハイシエラとか彼らは夜生きるとか、たくさん)が好きなのはコンサバだからか? 多分、違って、子煩悩なギャングが子供を連れて逃げるというシチュエーションそのものが、いやなんだと思う。しかも、このオヤジ、どう考えても、それは自殺だろうみたいなことをしでかすし。そりゃ、自分のようになって欲しくない自分を子供に見せつけながら動かなきゃならないというシチュエーションだから、そうならざるを得ないというのはわかるように思うが、そのシチュエーションそのものが映画として失敗しているような気がする。いっぽう、ポールニューマンとの関係は映画的にまとまっていて文句ないだろう。
やくざなオヤジと子供という関係の映画なら、やっぱりムーンフリートが好きだな。
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