著作一覧 |
has_manyと、Pagenationは相性が悪い。collectionが:limit、:offsetパラメータを取れれば良いのだな、と思った。
それにしても、パーシャルは、所詮テキスト(ITemplateが脳裏をかすめた)とは言えうまく考えられている。:localsの存在が大きい。
最初に入手できたのは、神保町にある中古レコード屋だった。
当時、高橋悠治は水牛楽団とコロムビアのPCM録音シリーズ、そして全音のPR誌のエッセイでしか活動していなかったと思う。
1975年の録音だから、冨田勲とキースエマーソン、ちょっと格落ちしてリックウェイクマンあたりだけが使いこなしていた時代だと思う。まあ、主観だけど。カルロス・ウェンディというような名前のソニーからバッハのシリーズを出していた人もいたけど、面白いと思わなかった。
高橋悠治は、どちらかというと後者のような方法論でやっている。ただ、フーガの技法だから、声部と音色をある程度固定し、ただし場はずらしたり(曲によるけど)しながら、かっちり弾いているから、声部を追うには都合に良い。なんだかよくわからない、水のピチョン君音が多いのがおもしろい。適当に混ぜて気に入った音を選んで組み合わせていったのかな、と思う。
LPは多分、売り飛ばしてしまったはずで手元にないが、1991年にCD化された時に買いなおしたCDは手元にある。
高橋悠治が(例の)詩のような特徴のある書き方で、読み手によって好き勝手に解釈可能な解説を書いている。
音楽はだれのものでもない。音符をたどることでも、
作曲家の意図にしたがうことでもなく、
なにかを発見することだ。
そして
あらゆる演奏は編曲だが、抽象構造に色をつけるということではない。元のものは存在しない。
バッハが自分で演奏したものは、彼のやり方にすぎない。
フーガの技法はバッハの最期の作品だと云われている。途中まで書いたところで止まっているのだ。息子のエマヌエルが、楽譜の最後にメモを書く。
このフーガをつくりながら、B-A-C-Hの姓が対位主題にとり入れられるところで作曲者は死んだ
このCDは、まさにここで終わり、楽譜に忠実にメモを読み上げて終わる。どこかCDの解説ではないところで、当時のコロムビアに在籍していたドイツ人の重役に頼んだというようなことを読んだ覚えがある。まさか、自分の読み上げが何10年も生きるとは思わなかっただろう。ビーアーシーハーと読み上げるので、Hをハーと読むのだなと知ったものだ。
ジェズイットを見習え |