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My Job Went To India オフショア時代のソフトウェア開発者サバイバルガイド(Chad Fowler)
を読んでいて背筋が寒くなったりして。
まったくもって、繰り返しは悪だ。だって、繰り返したければ機械にやらせりゃいいんだからだ。人間様は繰り返してはいけない。
というか、繰り返しは刑罰であり拷問だ。
石を背負って山を登るとか。
反復練習に限らず繰り返すことはそれにしても快楽なので、シーシュポスは微笑むことができるかも知れないが、それでも繰り返すことは悪の道だ。
繰り返し練習を繰り返すことで技能が身に付く。しかし繰り返すことは悪だとすれば、その身に付いた技能は悪なのだろうか? 墨子が非楽を唱えるのは、技術を学ぶ時間を楽に費やす無駄が許せないからだ。楽を学ぶのは反復練習が必須だ。その代わりに技術を繰り返し練習し身につける。役に立つか立たぬかの功利主義の萌芽が見られる。それはそれでありかも知れぬが、さっさと滅びた。ひとつの繰り返しから別の繰り返しへ乗り換えただけだからだ。
しばらく繰り返して身に付いたらさっと投げ捨ててしまう。そうすれば二度と繰り返さなくて済む。
そしてふと気付く。拍動という繰り返し、呼吸という繰り返し。寝て起きて寝て起きて寝て起きるという繰り返し。そうか、わかった人間様の存在そのものが悪なのだ。
Implementing Functional Prog Languages (Phi Series in Computer Science)(Jones, Simon L.Peyton)
ここにあるらしい。
ヨーロッパの近代を一言のもとに言うならば、主体を神から人へ取り戻す運動ってことだ。そのかわり、孤独だの絶望だの病気だの、パンドラが開けた箱から飛び出したイヤンなものすべてを自分で引き受けなきゃならなくなった。でも、希望もあるでよ。
で、その近代に対して第一次世界大戦でヨーロッパは瀕死になって、そこから現代になる。イヤンなものすべてを自分で引き受けなきゃならないうえに、希望も死んだ。
なんで、日本の近代を明治に、つまり封建制からの脱皮をもって置こうとするんだろうか?
ヨーロッパの主流派の王権神授説の否定=封建制からの脱皮=近代化というのは、あまりにマルクス主義的(下部構造が上部構造を支える)じゃないかい? (下部構造では、封建的な資本の固定化ではなく、新興資本家による富の蓄積によって近代産業の成立があり、それによって封建制度の矛盾を止揚する必要があり、そこに思想としての近代が生まれたとみなす)
そうではなかろう。と鶴屋南北とか近松門左衛門を読んで、上田秋成でも良いが、基角でも別にいいけど、この人たちは、最初からイヤンなものをすべて自分で引き受けてるじゃん。希望はあるのかないのか良くわからん。多分、無いのは諸行無常で800年やってるからだ。
見方が毒されているから、間違って眺めるということはある。
勧善懲悪が、特異だということだ。
だからこそ、滝沢馬琴は、圧倒的であり、他の何者からも孤立していて、ついには眼を奪われて、本当に孤立する。その裏では、日本最初の職業口述筆記婦人たる息子の妻が活躍する。
いや、そうではなく、江戸と上方が特異だということもできる。
だが、文化が国のバロメータであり、文章(この文章が詩文をさすのは曹否が弟を恐れたことから明らかだ)は経世の大業であるのだから、その特異な江戸や上方をもって、ある時期の日本を代表させてもこれっぽちもまずいことはなかろう。下部構造の主流よりも、主体的に生きていたのは誰かという問題だ。つまり誰が人としての尊厳をより意識していたかということ。
むしろ、明治維新は、近代を突き進む江戸に対する封建的な地方からの時代を逆転させる蛮行と見るとしっくりくる。廃藩置県で元の封建領主の力を封じ込めたとはいうものの藩閥政治はむしろ深化する。この無理やり、大砲の力で上野の山をぼこぼこにしたクーデターのせいで、日本の近代は一度葬り去られて、でもびっくりするような復元力(これを称して魔都東京と呼ぶ)のおかげで大正、昭和と盛り返して、そしてまた引っくり返される。引っくり返しの魁になって葬り去られた(3歩後退2歩前進、なんだ、後退したわけか)226の将校たちが都会人じゃない道理だ。
最初の本当に政治的なアナーキーの起源をフリーメイソンに求めることができる。信条としてのアナーキーはゴドウィンだというのはおいておいて。それにしてもどちらもイングランドが起源だ。カソリックとの抗争のせいで宗教(権威)を相対的に見ることができるということだろうか。地域特性に根ざした国家ではなく、民族も出自もなく、ある理念に従うことで、しかも特定の神ではなく人で(もっとも何かを信じていることは求められる。テロリズム(破壊)に結びつくアナーキズムは何も信じないが、創造に結びつくアナーキズムは何かを信じていなければならないだろう)、しかもそれが石工という技術と科学の使徒によって作られたことは重要だ。
近代としての江戸は職人の町だからだ。この洋の東西を無視できる類似性が、技術というものの特性ではないだろうか。
なぜなら技術は、横につながり個人に支えられる技と、時間を超えて受け継がれる術だからだ。
ジェズイットを見習え |
> 人間様の存在そのものが悪<br>しかし、繰り返しを悪と定義したのもまた人間<br>人間が自分の繰り返しを観測しなかったら、もっと善なるものになれたのだろうか
というか、自転、公転、収縮、膨張、宇宙そのものが悪意に満ち満ちている。で、「悪」という言葉は、「力」であり「強さ」であり、そこにいわゆる「evil」の意を付け加えたのは中世より後のことだということも視野に入れれば良いのでは。