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ある写真を見て、突然、アメリカンシロヒトリって言葉が脳裏に浮かんだ(フラッシュバック的でかこいい)。幼児の頃、近所の農家の人からものすごく怖いものだということを教えられたわけだが、それが蛾の名前とまでは教えてくれてなかったもので、白い人取り(人さらいの一種と想像してる)をまるでぼのぼののように勝手に想像して(異人さんに連れられて行ってしまった歌の影響とかもありそうだ。追記:小川未明の黒い人と赤い橇の印象から白い人というものを何か想像したという面もあるはずだと思い出した)恐怖で震えあがったわけであるが、いつのまにかそれが蛾の名前だということがわかってしまって、きれいさっぱり忘れていた。
あの国は本当にいろんなものを世の中に送り込むんだよなぁとか、イラクとかアフガニスタンのことを脈絡なく考えてみたり。
ひとつには、つい先日、東京名物で中央線からも見えた300年の椿の大木が毒蛾によって枯れ果てたっていうようなことが書いてある記念碑を、とあるお稲荷で読んだというのもあるかも。どんな毒蛾とまでは書いてなかったので、それが関係あるかどうかはわからないけど。
で、ケンローチはやっぱり好きだなぁとか思いながら見に行った。日曜の初回だが結構混んでいて一体何が起きたんだと疑問に感じたり。で、たとえばルシネマとかシャンテとかにグレードアップされるとがらんがらんで、結局誰からも輸入されなくなるというドワイヤンみたいなことにならないと良いねとか話し合ったり。
ケンローチは見ている限り、脚本をリアルに丁寧に描くだけの作家と感じるのだが、対象との距離の取り方(心理的な話ではなく、カメラと撮影対象の間の取り方の話)に特異性があるように思う。そこにライトの使い方やオルナメントというかその場に置かれているものによって生まれるものが加わって、独特のいやな感じ(主人公はたいてい嫌な状況に置かれている。たとえば国有鉄道の民営化によるリストラとか、自分を愛してくれない親からの愛を獲得するために犯罪に手をそめるとか、祖国を取り戻すとか)と、ささやかに時々感じられる幸福とかが映画として生まれてくる。
たとえば、この映画だと休戦協定のパーティでざわざわしているところから一人席を離れて恋人と見つめあうところで、薄暗い室内で白い首の長さと曲線が妙に浮かび上がるところとか。安定した構図なのに不安定なのはライトと距離にあるように思える。
それから、見えているのに手が届かないもどかしさの描写がうまい。どの映画にも必ず、手を届けて何かすべきなのにそれができないというテーマが映画として作られている。それが映画以外のなにものでもなく表現されているのは、これも距離の取り方にありそうだ。この映画だともっとも明確なのは、恋人の家がブラックアンドタンズに襲われて燃やされるシーンであったり、子供を診察するところだったり、きっかけになる駅での暴行のシーンだったりするのだが、目の前にあるのに手が届かないという構造はそのまま映画そのものなので、それを正しく表現できるということはまさに映画作家だということなんだろう(ここでカラビニエでの映画と絵葉書とかを想起する)。
物語としては、典型的な自由と平等のせめぎ合いで、確かにフランス革命からえんえんとどっちを選ぶかで殺し合って来たのを1920年代にも繰り返してたんだな(というか、1910年代に平等がロシアでは勝ったわけだが、その後も殺しまくることになったわけで)と、問題の難しさに嫌な気持ちにはなる。共和国軍というのはそういうことであったのかと納得したり。
アイルランドはおいておいて、平等は赤だが、自由には白と黒があるんだが、黒が出てくることはないなぁ(ユーゴはちょっと黒かったのだが、おそらく白が発達してなかったからだろう)とか。でも黒がどうなるのかはまだろくに実験されてないわけだから実際のところどう動くのかには興味がある。
で、歴史が示していることは、成功パターンはまずは白を回して富を蓄積してからちょっぴり赤っぽくそれを再分配すると、そこそこうまくいくということで、問題はあまりの富の少なさに性急に赤をめざすともともと分配するものさえないので食い合いになるということのような。
という後付けで振り返れば、やはりアイルランドの白い決着は正しかったのだろう。物言わぬ大多数はそれに気づいている(というか、無関心は支持のうち)。
しかし、そこには栄養失調で子供が倒れているという現状もあるわけで、赤く考えてしまうのは現場にいればいるほど、無理もなかろうと思える。目の前で死人が出ているのに30年後を見据えて斬って捨てるのは難しいだろうな。それは訓練なんだろうか?
したがって、結論は出しようがない問いかけであり(というか、結論は出ているのだが、そこを300万人死んでも1億が助かれば良いみたいに、公言することはなかなか難しいだろう)いやな気分のまま終わることになる。
ケンローチはこの映画を撮ったことでいろいろ攻撃されたそうだ。右翼や排外主義者も多そうな国だからそれは想像できる。日本で言えば、朝鮮の抗日運動から南北戦争までを描くようなもんだ。敵を敵として描写すればいやおうなく敵として映画になる。でも実際には敵はイングランドではなく他国による支配という抽象的な存在で(その後は富の創出と分配方法に移るわけだが)、それは第3者には当然のこととして見えるのだが、当事国の人間でかつ見たとおりにしか受け取ることができないばかにはそうは見えないんだろうな、とか。
日本のハッカーの数はSourceForge.jpから推測するに3000から5000人いるというような発表がGPLv3カンファレンスであったらしい。
結構、いっぱいいるもんだ。なんとなく明るい気分。
とかTalpa memorandum読みながら書いてたわけだが、赤白黒問題ってここにもあるわけだよなぁとか。
たぶん、ストールマンは黒だけど白い白い、それはたぶん、世の中にはまだまだコードが足りないと考えてるんじゃなかろうか。だからまず自由が来る。足りなかったどころか没収されるところを目撃したからだ。
一方、もう十分に足りてると感じてる連中もいる。だからみんなに投げ与える。別に囲い込んでもいいぜ、必要になったらまた作るからな。
でも、一般論としてストールマンは赤だと思われてる。オープンの嚆矢者は自分たちを白だと言って銃を振りまわして見せたり。
でも、実態としては逆だ。
ジェズイットを見習え |
いい爺さんに連れられていーっちゃーった、とか<嘘です。
そう言えば赤い靴を履いているのはどんな子だと思います? 今思い出したけどそこにも衝撃の幼児体験(世代固有かも)が! 白人の子供が父親と故郷へ船出が真相だ!
赤い靴…
あれはrubycoさんだったのかな。