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はるか以前のこと、銀座か日本橋の裏通りを歩いてたら、妙な顔面をマークにしたスマトラカレーっていう店を見つけた。食いたかったが休みだった。
それから幾星霜、虎ノ門をうろうろしてたら、その顔面の看板が目に入った。スマトラカレーの店だ。
大喜びで入って注文して、出てきたカレーを食ったら、これっぽっちも好みじゃなくて、心底がっかりした。絶望したとはどんなに絶望しても書かないよ。
小麦粉を使ったカレーだ。田舎のうどん屋のカレーライスみたいなやつ。
おれは、スマトラやボルネオがその語感から大好きなんだが、まったく、裏切られた気分だ。
それでも、食い物を残すのは、お百姓さんに失礼極まりないのでやらない(という教育を受けたのが身に沁みこみまくっている)。そうは言うものの、あまりにも好きではないので、テーブルの上に置いてある紅ショウガをてんこもりにしたら、おや、これはうまいぞ。福神漬(たいしておいしくないのが置いてあった)とかではだめだが、ショウガがぬるまゆみたいな田舎のうどんや味に対して良いアクセントを付けてくれる。これは発見だ、とは言うものの、あまりにささやかではある。
古臭くてもデリとかいんでいらとかは好みなんだがなぁ。(ボルツは30年前に感動し、20年前にはなんじゃこりゃと思ったし、アジャンタは25年前に感動し、15年前にこんなんだっけ? と思ったし、マハラジャは24年前にたいしたこたないな、と思い、サムラートは20年前に通いつめてすっかり飽きてしまい、マラバールは15年前に見つけて今でも気に入っているとか、いろいろ変遷してるなぁ。ムルギーは25年前に恐怖に震えたけど、今はどうなってるんだろうかとか)バルチックも名前が好きなので結構好きだな。
で、晩飯にチリチリカレーで口直し。このあたりも口に合う。
自慢ってのは、あまり良いことではない、という考え方がどこかにある。
だいたい「慢」ってのがネガティブワード扱いにされてんじゃないか?
たとえば、「慢」のつく熟語を挙げよ。
「慢心」「傲慢」「増上慢」——ろくでもないと考えられている状態を示す言葉ばかりだ。
しかし、もし、マスイ理論=ネットはジマンパワーの発露の場仮説が正しいとするならば、自慢というのはむしろ良いことだ。なぜなら、それによって発露された情報の中に有益なものがあるからだ。(っというか、なんでカタカナかと言えば、きっと「慢」の字が持つネガティブパワー重力圏からの離脱のためなんだろうが)
たとえば「masuidrive的プロジェクトの方針」を増井つながりで引いてみたり。
で、まあ、思ったのは、「慢」の字、大いに結構じゃん。カタカナでジマンとかやらずに、「一発、おいらに自慢させてくれよ、」とやりゃいいんじゃないか? ということだったり。
言葉を変えるには、意外にも、やはりマスメディアの力はでかい。
そこで、今後、日経BPあたりは、「成功事例」という言葉の代わりに、「成功自慢」という言葉を使うようにすれば良いだろう。「我が社のSOA成功自慢」「オープンソース利用でコスト減自慢」「我が社のWindowsサーバー管理技術自慢」「COBOLからHskellへの書き換えでトラブルゼロ自慢」なんていうタイトルが踊り食い状態。
そして、数年、ネットが自慢で覆い尽くされたとき、人は、謙虚さの美徳(謙譲の美徳ではない)をあらためて発見し、感動することになるのだ。
マンキーウィッツは、そんなにたいした監督ではないが、良い監督ではある。
マンシーニのムーンリバーは名曲過ぎて、映画というよりも原作が持つ狂気をすっかり骨抜きにしてしまった。
っていうのは、どうでも良いが、
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マンは、本当の漢の映画監督だ。ホークス、フォード、マン。殺しのダンディは傑作だよ(確かクロッキーの人形の糸が切れるのはこれじゃなかったかな?)。
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