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FACEを使おうと思ったら、2バイトコードに対応してなかったので、cursesを使うことにした。とか書き始めてはみたものの、FACEじゃなくてfaceだったかも。というか、curesesって綴り合ってるか?
で、curesesを使うわけなので、80×24の座標系で物事を考える。
その時、作ったのは、4個所くらいに入力したらファンクションキーを押して処理を実行、てようなやつ。古いシステムである。
実は2バイトコードへの対応が腐っていて、半角カタカナも2桁として処理されたり(ここで、文字コードが何かわかる仕組み)。で、しょうがないので、(業務システムだから、使うなカスとかは言えないというか、よくそんなくだらない制限を甘受して、それだけならばまだ良いが、そのくだらない制限に反逆しようとする人をカス呼ばわりするわけで、どれだけ体制の犬なのかと、今日のスラドで久々にそういう犬を見てびっくりしたわけだが。という程度の言い回しの問題ではある。もちろん標準にしたがうのは正しい)0x8eのとこでカーソルを押されたら移動関数呼び出した後に1桁戻したりとか、くだらないけど結構楽しかったり。
で、思うに、原稿用紙もそうなわけだが、あの枡目という考え方をそのまま利用できる世界って結構良かったのではないだろうか。カーニングとかハイフネーションとかが普通に利用される言語の人たちにとっては、おそらく80×24の桁行の世界はとても窮屈だったろうな、と思うのだが、枡目を埋めて文を作る人にとってはね。
と、Wordでアルファベット日本語混じり文を入力してばかげたカーニングでとんでもなく間延びした行とかが出来ると思ってみたり。
その一方で、行書草書で書かれたものを眺めて、あれ、これが書であるならば、原稿用紙というのはいつごろからの風習なのか、と疑問に感じたり。もちろん、明治以降のことだろう。日本語活版印刷との整合性を取る必要があったからだろうな。
今は活版印刷では無いようだ。でも、適当にそこらの本とか眺めて見ても、日本語プロポーショナルフォントが利用されているようには見えない。
おお、そうか。その見た目の違和感が活字離れの原因かも。というか、すでに活字は使われていないわけだが。つまり、本を読まない人々の存在。
メイリオだのMS UI ゴシックだののほうが主流だしな。
もともと、日本は世界に冠たる出版王国だったというようなことをどこかで見かけた覚えがある。つまり日本人は本好きだというような結論になってたような気がするが、実は逆で、固定ピッチで活字を組めるから、アルファベット圏より本を作成するコスト(金額の話というよりは、活字を組むリソースの問題)が低かったのではないだろうか。そのため、本が安価に大量に出回りやすく、その結果、安い娯楽として人はそれを求める。
梶原一騎が気鋭のスポーツライターというか、物語作家としてデビューしてすぐに、雑誌から記事が消え、しょうがなくマンガ原作家というまったく新しい職業を開拓せざるを得なくなる、というようなエピソードが男の星座に出てくる。
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で、あまりにも新しい職業ゆえに、地位も低くのちのマッハGoGoGoの人かな、吉田竜夫からゴーストライター扱いされて怒るとか。物語りも作れない(というか、ここで作家と挿絵画家の作品に対する関係は変化しないのに、小説からマンガになることで社会的地位が逆転することにびっくりしているわけだが)、ただの画家のくさったやつのほうが、でかい顔するとは何事か、と怒りまくるものの、どうにもしょうがなくて酒飲んで暴れたり。
でも、あまりに怒る上に、現実問題として梶原一騎が物語を作らなければマンガが成立しないので、そこで「原作」という肩書が生まれ、新しい職業としての原作者(む、作家は家だが、原作者はモノだな)というものが誕生するとか。
で、当時無名の大山倍達が、「先生、男は名前を売ってなんぼですぞ」とアドバイスをするような違うかも。
本当は、telnetdはなくhttpdを内蔵するアプリケーションに話が進むはずだったのだが、違う話になった。
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