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日々の破片

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2007-09-16

_ 古典に親しむ

読んだことのない古典を読むことにして、まずは、マーク・トウェインあたりかなとか。

子供のころ、トムソーヤの冒険を読み始めて、あまりのつまならさに嫌気がさして投げた覚えがあるのだが、それから幾星霜、ハックリベリーフィンを手に取った。どっかで、アメリカの図書館からの排斥のことを見かけて、それがむしろごく最近だということに興味を覚えたってこともある。

いきなり、「僕」が状況分析しながら、いろいろ話し出すもので、あれ? ハックルベリイフィンとトムソーヤのほかにワトソン君のような冷静な観察者がいるんだっけ? と不思議に思いながら読むと、なんということはなく、フィンその人が語り手だった。が、むしろこれは良い訳だと思う。この作品は、冷静な観察とそれに対する分析、内省の繰り返しだから、「おら」だの「おいら」だのの語り口調だったら、違和感があっただろう。

最初の2ページくらいをとにかく読んでいくと、すぐにこの語り手のことが好きになり、あっという間に作品世界に入り込むことができた。こりゃ、傑作だ。確かにマークは良いトウェインだ。

とにかく、いろいろ読まずに伝聞で想像していたのとはずいぶん違って、フィンは全然野性児(なんだろうと想像してたわけだ)じゃなくて、親がいてさえ子は育つ(安吾)を地でいくまともな観察者で、未亡人に敬意をはらっているし、少なくても20までの数は掴んでいるし、読み書きもちゃんと勉強したおかげで本も読める。

ハックルベリイ・フィンの冒険 (新潮文庫)(マーク・トウェイン/Mark Twain/村岡 花子)

その一方で、図書館から排斥される理由もわからないではない。

まず、はじまってわりとすぐに、親父が延々と自由市民となった黒人をこきおろす大演説があるのだが、読んでいて不快になるほど、とにかく延々とこきおろすので、気分が悪くなる。

出版時には読んで溜飲をさげる人とか、あるいは大笑いする人(たとえば、当時の有名な反動家の大演説のもじりになっているとか)とかがいたのかも知れないけど、そのへんのコンテキストが失われているから、まったく笑えもしなければ気分もよくならない。ひたすら不快だ。こんな連中のために鹿鳴館で屈辱外交してたのか、という感じだ、つまり、過剰感がありすぎる(この過剰感は親父大活躍の冒頭と、トムソーヤ大活躍の終盤の特徴だ)。

そして、最後のほうになると、ジムの救出がメインテーマになるだけに、ハックルベリイが自分の意識の中に築き上げた奴隷と人間の明確な区分けに、いたたまれない気分になってくる。もちろん、ハックルベリイは地獄に落ちることを宣言して壁を崩すのだけど、それは崩すというよりはせいぜい亀裂を入れる程度なので、21世紀の現在からは、大騒ぎするわりにはまったく何も変わっていないという点にいたたまれない感じになるのだろう。

で、それをおれは、まだ他人事な歴史として読めるのだが、直接の子孫がこれを読むと、すでに蒙を啓かれているだけに、内心忸怩たるいやな気分になるのではないかなぁといらぬ想像もしてしまう。ハックルベリイほどの冷静な観察者、因習に縛られていない自由な精神の体現者ですら、奴隷を人間として扱うということに、恐ろしい罪悪感を感じてアンビバレンツするわけだから。同じ人間たる狼と狐のコンビ(ピノッキオとハックルベリイとどっちが先行しているんだろうか)に対して持つある種の連帯感よりも、厳然とした差が書かれていて、まったく子供と旅の良い相棒になった第3者が所有しているため飼い主に返す必要がある犬を、いざ返す段になって駄々をこねている、という書き方になっている。結局は、ここで問題になっているのは所有権の否定が許されるかどうか、という点に過ぎない。実際にはそれほど単純ではないが、同じ所有権の否定でも、野菜を盗むこととは異なる次元の問題(野菜は自分の夢をしゃべったりはしない)とはしているのだが、それでもやはり犬のような書き方になっているのが、読んでいて感じるいやな気分の源泉なんだろう。

自分の先祖が直接おかした愚行を突きつけられると、なかったことにしたがるってのは、普遍的な感覚なのかもな(もし、その感覚がなければ、単に言葉使いの問題だけだったら、排斥を断固拒否できるのじゃなかろうか)。

それから、ハックルベリイが、未亡人とその妹の信心にえらく疑問をもっていろいろ実験して、どうも信心ってのは奇妙なもののようだと意見を表明するあたりとか、論理の組み立て方が素直なので、原理主義的にはあまり子供に読ませたくはないだろうなぁとか。

賢明な女性が家に閉じ込められているありようとか、教養もあり親切で尊敬できる一家の復讐についての愚かしさとか、おそらくまとも(らしく描写されている)なシェイクスピア劇にはこれっぽっちも興味を持たないが、ご婦人と子供はお断りの劇には押し寄せる人々とか、疑わしきはリンチにかけようと待ち構えている人たちとか、いろいろ観察しながら冒険は続く。

すべてがうんざりするのは、トムソーヤが出てきてからで、いったいこれはなんだろう? トムソーヤが飛びぬけて異質なんだろう、とちょっと驚く。それまでの話の、ハックルベリイの物語の進め方ががらりと変わるほどトムソーヤが物語を爆発させるので、一瞬わけがわからなくなるが、そこを通り過ぎると、トムのペースに対してハックルベリーがワトソン君としていい程度に抑制を利かせるので、またおもしろく読めるようになったけど。

印象的なシーン。筏にハックとジムが寝っ転がって空を眺める。すごい星空。あれはどうやってできたのかを話し合う。ジムは誰かが作ったのだろうと言い、ハックは自然にできたんだろうと言う。なぜならば、あれだけの数のものを誰かが作ったと考えるのは現実的ではないようにハックは考えたからだ。それに対してジムは、あれは月の子供なんだと言う。そこでハックは自分の考えのほうが正しいとは思うが、もし月の子供だというのが正しければ、蛙が一回あたりに実にたくさんの卵を産んでそこから山のように子供が孵る、といった知見から、あり得ないことではないので反論するのはやめとこう、と考えるというようなところ。


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