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じゃじゃめん食いに行こうと思ったら雨が強くて迷う。
最近、車の中ではこれを良く聴く。というか、一貫してずーっと聴いている。もっともiTunesから仕入れてCDへ焼いたオーケストラルマヌーバーズインザダークのベストとかも聴いてるけど。シカゴ、ポリーニ、アバード。
一方、家の中ではこっち。ボストン、サーキン(ピーターのほうのゼルキン。この演奏時はまだゼルキンだったのかも)、小澤(追記あり。嘘だった)。もっとも、家の中ではトスカニーニとかも聴きまくっているので、こればっかりというわけでもないけど。
バルトーク:ピアノ協奏曲第1番&第3番(ゼルキン(ピーター))
もちろん、スピーカーも違うし、再生機器の違いによる音の違いってのはあるにしても、それにしても、同じ協奏曲1番がどうしてこれほど違う曲になるのか。
同じアメリカの交響楽団、アメリカから見て異国から来た黒髪の指揮者。もっともポリーニのは多分80年代だろうけど、サーキンのは60年代と20年の時間差があり、東部と中部の差も大きいんだろうかな。
ボストンの響きはあくまでも柔らかく、どれだけ金管が鳴り響こうと、柔和な顔を崩さない。一方、シカゴは劈く(なんだこの漢字は)ように鳴り響く。オーケストラの音だけだとボストンのほうが好みだ。
これはオーケストラの音の違いなのだが、少なくてもおれがイメージとして持つピアニスト側の音色の違いと同じに感じる。硬質なポリーニに対して軟質なサーキン、もっともどっちもクリアなのだが。アバドとポリーニだと感じるスリルなせめぎ合いが、サーキンと小澤だと玄妙に融合した感じとなる。その代わり、サーキンは時々だれる。もともとゆっくりめなテンポを取っているのだが、それが(かんじょ楽章、変換しない。かんじょも間違った読みなのか? う、えんじょか。どっちにしても変換されないが)緩徐楽章になると相当辛くなる。緊張感があまりないのだな。というか、全体的にそういう演奏だ。ほわほわした柔らかさで取り止めがないようにも感じる。にも関わらず音の美しさは相当なもので、確かに登場時の新即物主義に慣れた人たちには斬新だったかも知れない。
ポリーニのほうが好きだが、サーキンもいいな。第3番の冒頭とか。遠くのほうで思い出しながらどんどん速度を上げていくところ。でも繰り返しているうちに遅くなったりまた早くなったり、しているうちにオーケストラが追いついてくる。
シェーンベルクがおまけのように入っている。嫌いな作曲家どころかむしろ好きな作家ではあるけれど、バルトークに比べるとずいぶんとつまらない(BGM的に聴いていると。まじめに聴くと高密度なため、すさまじく面白いのだが、疲れる)。
ボストンというと、学生の頃に読んだロバート・B・パーカーを思い出す。ドーナッツ、駐車違反と、石畳。船を建てるには、自ら羽をもぎとった天使あしかのBパーカーってのが出てくるが、ここから取ったのだろうか?
初秋 (ハヤカワ・ミステリ文庫―スペンサー・シリーズ)(ロバート・B. パーカー)
初秋から入って、それなりにはまって数冊読んだが、だんだんうんざりしてきた。頭の良い人が、チャンドラーに上手にお色気とか人種のかかわりとかそれなりに時事的な状況ネタとか、いろんな要素をうまく詰め込んで、感傷をフレーバーにして、もっともらしい説教を垂れて納得させるというようなスタイル。
でも、それはシリーズの同工異曲を短期間に読んだからなのかも。あらためて初秋とか読むと、また味わい深かったりするんだろうかな?
追記:あっと、びっくり。良くCDのジャケットを見たら、小澤−サーキンはボストンではなくシカゴだった。信じられない。この後のショルティ時代に変わったのか、それとも純粋に指揮者の違いなのか(いや、音色にとっては録音技師の違いってのもあるだろうけど)、全然別物だというか、おれにはボストンとのコンビの音と同じに聴こえる。で、不思議に思って調べると、この録音時点では、まだ小澤はボストンには就任していなくて、結構、シカゴとコンビを組んでいたのであった。ということは、この音は交響楽団の音ではなく、小澤の音だということだ。
作曲家と作品番号という絶対的で不変なURIがある。
それに対して演奏家というユーザーエージェントを通してアクセスする。URIは変わらないがフェッチできるのはあくまでもリプレゼンテーションであって、コンテントそのものではない。
コアが変わるとx.y.zのyを上げるという決まりではあるけれど、コアのパッチレベルがあがっているだけなんだから、次は4.1.110のほうが良いのではないか? というようなのってどこに書けば良いのだろうか。
なんか野次馬として行く都度、ROM-BASICの命令を連呼しているようで不思議である。
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