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本を書いていて、どうもテスティングフレームワークという言葉のおさまりの悪さ(というと違うなぁ。なんていうか、妙に通ぶった言い回しというか、日本語になっていないカタカナ固有のイヤンな味というか)が気になって、えーい、テストフレームワークにしてしまえとしてみたりしたんだけど、どうにも気になる。というのは、テストって書いているけど、テストじゃないんだよな。
というようなことは、わかっている人はみなわかっているんだけど、わかっていない人はもちろんわかっていない。
でまあ、実際にユニットテストを書けば、なんとなくわかってはくるわけだけど、それを言葉で表すってのも必要だよなぁ、とかいろいろ思うところもあって。
とはいえ、やはりテスティングと書くのはどうにも気になる。逆にこういうもってまわった言い回しが敬遠されたりもするんじゃないかなぁとか。
で、なにげなくTwitterでぼそってみたら、t-wadaさんから素早く、しかも確信に満ちた言葉が返ってきた。おお、なんか妥協するにしても、単に妥協するのではなく、表現できるところまでは表現すべきだ、という勇気というとちょっと違うが、なんかモチベーションが上がった(ロールプレイングゲームのファクタには出てこないのが不思議なくらい、重要なパラメータだ)ぞ。
というわけで、書いてみたら、なんか自分でも得心してしまった。
なので、リンク可能なかたちで公開します。こういう気分、というやつです。
何しろ、聞き始めたころは、単なるコンセプトアーティストと化していて、あの驚くべき国立劇場での雅楽を生で見るというラッキーな体験もできたが、どう考えても名前のかっこよさに比べて音楽はだめだった。怒れるブーレーズ>>いまの音楽にノーノー>>>>>>>>>>>>今日のおかずはシュトックハウゼンというのが、僕にとってのダルムシュタット三羽烏であった。というか、最近は耳にしない言い方だな>三羽烏。
とにかく、いや、噂に聞く天才の音楽がこんなはずはありえないと、WERGOかな?とかDGとかのシュトックハウゼンのレコードを買って帰って聞いては叩き割りたい衝動にかられるというか、売り飛ばして次のを買う資金の一部にするというやりかたをするので、手元にはみごとに残っていないのだが、ロストロポヴィッチだとホイガーだとかを結集して作った金毘羅船の追い手に帆かけてしゅらしゅしゅしゅのようなタイトルのインプロヴィゼーションがどうにもこうにもなのはもちろん、ヒムンの、これにくらべれば、おれはルーリードのメタルマシンミュージックのほうがよっぽどおもしろいと感じる単調さとか、今となっては少年の歌とか、早い話が、感動はもちろんのこと、感心すらしたことがなかった。
しかし、超一流の奏者たちが取り上げるということは、何かおれにはわからない魅力があるのだとは思う。
それにくらべてやはり、こういうのは今となってはゴミというかつわものどもの夢の跡地というか。
KONTAKTE(Karlheinz Stockhausen)
いや、タイトルの付け方は名前と共に最高にかっこいいのだな。
興味深い。
テレビは「愚にもつかない娯楽」を提供しているときは良いのだが、問題は、そういう特性を持ったメディアであるテレビが「よいことをしよう」と思ったときで、政治などを取り扱おうとするのだが、そういうときにこそとりあつかっている対象を破壊してしまう。
ある種の表現(ここでは論理の積み重ねを示すこと)が(基本的に)不可能なメディアが、それ抜きでは不可能(だと思われる)ことをやろうとした場合に、自分の特性のほうに対象を引き寄せてしまうために、最初の意思と裏腹に対象を正しく取り扱えない(どころか破壊してしまう)。ということだが、そこまで単純化可能なものだろうか。いや、メディアをナイーフに使うことを想定した場合、それは正しく思える。
逆に考えて、ではたとえば政治の本質的な議論に向いたメディアに求められる特性とはどのようなものだろうか? 後戻りできる必要がある。いや、違うな。議論について言えば、テレビというテクノロジーの問題ではない。テクノロジーの上に構築されたメディアの問題に見える。どういう撮影方法を利用するかというようなレイヤから、広告収入に頼りそれを定期的に挿入するというビジネスモデルのようなレイヤまで。
と考えると、テクノロジーはやはり中立ではなかろうか。いや、それも違うか。表現可能なものと不可能なものは残るからだ。
読んでみたいけど、さすがに技術書じゃないと英語で読む自信はないので、翻訳を探してみたが、これがそうかな? (というか、ニールポストマンではこれしかない)
日本は、いまマルチメディア社会を目前にしている。ばら色の未来予測がとびかうなか、技術の無制限の成長が人間の知的・道徳的環境にもたらす破壊的な影響を意味論的に追究、それへの知的レジスタンスをよびかけ、学校教育での新しいカリキュラムを提案する。
それっぽい。マルチメディア社会どころかHD社会になってしまいつつあるが。
追記:違った。これは『Technopoly』という本らしい。(よしきさんが言及されているもう一冊のほうだ)
ジェズイットを見習え |
Postmanの論によれば、活字文化が民主政治の元である、ということではありました。電報の発明以前には、政治化の講演や論評が掲載されて、一週間おきに対立する政治家がお互いの意見に対して論理を用いて反論する、というものを驚くほど下々のものまでが読んでいた、という環境が成り立っていた時期があるそうです。
どうもありがとうございます。<br>1週間という反論のための猶予期間や、下々まで配布可能な形態とかが根拠になっているのですね(その下地として論理的な議論に対する読解力というのもくるのか)。<br>2大政党制というあり方もそのへんが源流にあるのかなぁ(議論が発散しないだろうし)とか、いろいろ面白そうなので、機会を作って読んでみます。
Neil Postmanの本の英語はほとんど高校生でもわかりそうな勢いなので、技術書の下手な日本語訳を読むよりはよっぽども読みやすいと思われます。最近ちょっと一押しです。
見たら1500円と比較的安いから、仮に読みきれなくてもそれほどダメージがなさそうなので、アマゾンに発注してしまいました。