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ううむ、25日の夜だったのか……しまったと思ったときはもう26日。
Best Of... Vol. 2: 1978-85(Simon, Yves)
そういえば、高校生(大学生になっていたかも)のころ読んだなぁとか思いながらアマゾンを眺めると、瞬間的な翻訳ブームがあったらしきことがわかる。
(アムールとアームで韻を踏むのがつくづく好きなんだな)
ふむ、どんな作品なんだろうか。でも、読まなくてもわかるような気もしないでもない。
パリの1500万秒―イヴ・シモンが描く魂のなかの愛(イヴ・シモン)
これを読んだのだな。ボーイミーツガールなクライムノベルだから、まあ、いかにもではあったけど、描写がきれいで、感情の流れが自然、かつどうしようもない切迫感、焦燥感、閉塞感をもたらすスピードがあって、リモザンやドワイヨン、カラックスなんかの同時代人のように一瞬思えるところがあった。でも、実際には70年代にはフォーク野郎だったわけだから、もっと突き放した80年代の捕らえ方をしていたとも感じた。
少年とピストルがここに置かれる。
どちらも頭はポで始まるが、その違いはチェコのあたりのクリスタルグラスと、織部好みくらい異なる。
どっちもいいなぁ。
ポリーニで聴くと、単なる幻想曲にソナタと名前をつけたわけではなく、実際は驚くほど構造的で、ある意味ではブラームス(シェーンベルクが学び、ウェーベルンが深耕し、ブーレーズが完成させた)的でさえあるロ短調ソナタがソナタの中のソナタなのに対して、
Piano Sonata(Alexander Scriabin)
ポゴレリチの手にかかると、衝動的で突発的で情動的で、思いつきと気まぐれに支配された長大なるカプリオーソのように聴こえる。ある瞬間、ある瞬間のフレージングであったり、鳴らせ方であったり、固有な細部の強調が、全体の構造に対していびつな歪みを生じさせる。
部分は全体のために奉仕しているだけのか、それとも全体というものは単なる部分の集合に過ぎないのか。アプローチの違いが、同じ曲をまったく異なるものとしてインスタンス化する。
ポリーニは1942年生まれのイタリア(ミラノ)人で、少なくともある時期においては共産主義者、ポゴレリチは1958年生まれのユーゴスラヴィア(クロアチア)人。と書いてみると、中央集権と自主管理といった言葉まで引っ張りだしたくなってくる。
だから、全体としては、ポゴレリチのロ短調ソナタは退屈な面を持つ代わりに、ときどき、はっとする瞬間芸の世界、それに対してポリーニの演奏は一瞬一瞬を聞き逃すことが不可能な緊張感の持続。すでにひびが縦横に走ったリューインと、磨かれきった水晶宮、……端的にいえば、ポゴレリチの演奏は頭が悪い。でも、それが魅力なのだろう。
冒頭の下降型が、曲としてはちょうどブルックナーの霧のような単なる序奏に聴こえるのだが、実際には、ベートーヴェンのハ短調の交響曲と同じく全体を支配する。続く、ターンタタタータタタタも重要な動機だが、後半の下降を最初の動機の発展とみると、それとも独立した動機の後半とみるかで、どれが第1主題で、どれが第2主題なのかが分かれる。
ポリーニを聴くと、提示部がまさに、その最初の数分にみえる。
ポゴレリチだと、コラールのようになる部分の歌わせ方が極端に強調されるので、そこが第2主題のように聞こえ、そのため最初の下降音型と続く跳躍を持つ動機が合わせて1つのように見える。そこの違いが全体の構造に影響しているのではないか。ポリーニの場合、コラールのようになるところが、最初の展開部として聴こえる。(聴き直すとまた異なる印象を受ける可能性があるなぁ)。
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