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インプレスのプリンター? 何か新しいMSのビットマップ方式? とかさんざん不思議に思ったあげくに質問を見たら、インクがレスということだった。
のは良いが、最初、まったくその発想がなかったときは、incressとかincrest(末尾tは発声しない)とかが頭に浮かんで、どう読んでもインクレスプリンターだったのが、わかった瞬間以降、どう眺めてもinklessのインクレスプリンターとしか読めない不思議さ。
固定化された見方が別の固定化された見方に変わる。
踏切の音が、テンカテンカテンカテンカと鳴っているわけだが、ある瞬間からそれがカテンカテンカテンカテンに変わってそれが当たり前となった次の瞬間にまたどう聞いてもテンカテンカテンカテンカに変わる、のと同じようなものだろう。
こういう感覚というのは人類という生物に普遍的な性質なのか、それともおれの感覚が変なのか、さてどっちだろう?
積ん読消化シリーズも10月になったら打ち止めだな。
というわけで、カントールの本を読了。
「無限」に魅入られた天才数学者たち(アミール・D. アクゼル)
2章になると、えらく長くて退屈なユダヤ教の説明が始まり、カバラがどうしたというような話になる。うんざりしながら読み続けた。
なぜ、出自がユダヤ人かどうかで、こういう話になるのかと疑問に思っていたら、アレフ(ヘブライ文字のアルファ相当)に続けることと、無限の多段概念を出すためだったのか、と最後のほうになって納得はしたが、なんか損をしている感じだ。2章が、仮に須弥山の例だったらもう少しおもしろかっただろうか。
対角線を使うことで、有理数と自然数を対応づける方法については、先日読んだエルデシュの伝記に出ていたので特に感銘もなにもないが、それがたかだか明治維新のあたりの頃の話(黒船あたりか)だということ、しかもそれに対してそんなものは学問ではないと論文の発表を潰しにかかる敵対勢力があること、などのほうに奇異の念を受ける。
無限というのは、それほどまでに、まずいことだったのか?
逆に東洋のように無限、あたりまえじゃんとみんなが考えてありのままに受け入れていると(無間は無間だし、というか無限という言葉の語源はなんだろうか。そのくだりは記憶にないが、荘子が「わが生涯は有涯にして、知は無涯なり」と語ったとブリタニカに出ている。形而上では時間の概念も量の概念もないから――アプリオリということは時間の概念から独立していなければならないし、量についても何かあったような――それをもってして無限と考えると、それ以上の考察は不要となる理屈だ)、それ以上に学究が進まないということなのかも知れないなぁとも思うわけだが。というか、そもそもありのままとはなんぞや、と考えないことが問題か。
カバラのところはともかく、無限について論理を巡らす人たちが、カントール、ゲーデルと次々に精神に失調を来すというところに、著者は物語的な興味を持ったようだし、確かにある種の呪われた学問というスリルに近いものはあるのかも知れない。が、それにしてもそこに網を張って捕まえて、研究の対象とできるようにした、ということがカントールによって行われてからまだ150年なのか。実に世界は驚嘆と謎に満ちあふれていて人類の(前衛の)想像力は尽きないものだなぁ、と、なんとなく楽しい。
とりあえず、おれはこのあたりの時代のこの分野の数学は好きだし、それなりに理解できるということは確認した。大学の教養数学で感じたことの再確認だな。実際、えらくおもしろいのだが、それは対象から一歩下がったところから全体的な把握をしようとする姿勢に共感するからかも知れない。そして共感があるから、理解したいという欲望が強くなり、それによって思考が駆動されるという感じだろうか。
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