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さて、いよいよ佳境に突入した。
プログラマーのジレンマ 夢と現実の狭間(スコット・ローゼンバーグ)
まあ、眼光紙背に徹す読み方をすれば、パールにバールを打ちおろそうが、Javaスクリプトがトプリクスだろうが、内容にはまったく関係ないわけで、字面を追ってもしょうがあるまい。
つまり、CMMとアジャイルの対比のくだりにさしかかった。
久々に今日は昼間もコードを打ちまくっていたのだが、以前から薄々気づいていたことが確かな感触としてわかったように思う。
まず、前提として箸棒は棚上げしておかないとややこしい。
人の10倍の生産性うんぬんというのは、その個人の中で成熟度のレベルが極めて高いということだ。したがって、その成熟した方法論を外した方法論を押しつけると、生産性は下がる。
それだけのことだ。
したがって、CMMという考え方そのものは正しい。成熟したチームあるいは個人であっても、それは正確に反復可能であり、かつ新しいことの受け入れもできる。その成熟した方法にしたがっている限りは。
問題は、モデルのテンプレートにある。
それは可視性の問題だ。
誰にとっての可視性か、という問題というのがより正確だ。
そこにどうにも越えられない溝があるようだ。
言葉の重みというものがここにある。
具体的には、次の2つの言葉を比較してみる。
・われわれはすべて組織のために働いている。
・組織には計画が必要である。
・一人でもやっていけるというのでないかぎり、スケジュールにしたがって仕事をする必要がある。
・自分で自分のスケジュールを作成しなければ、誰かほかの人間が作成する。
・そうなれば、その人間に管理されることになる。
それに対して
・プロセスやツールより、個人個人とその関係を重視する。
・包括的なドキュメンテーションより、機能するソフトウェアを重視する。
・契約交渉より、顧客との協力を重視する。
・計画に従うことより、変化に対応することを重視する。
ほぼ同じことを言っている。どちらも、チームで働くということはお互いに協調しなければならないということで、その協調を作るのは個人の責任であり、その個人の動きはその個人にしかわからない、ということだ。
だが、表現がまったく違う。
同じことをするために、2種類の表現があり、それだけならばまだ良いが、なぜか正反対の方向に成果物が向かってしまう、というのが、おれには興味深い。
誰がどう読み、誰がその結果を知るのか、という外部要因によって決まるのだろう。
わけわかめというのを読んで、それだけが理由かなぁと考える。
複数の電子マネーを持たない人というのはいるから、そちらにも手を伸ばしたいと判断するにいたったのは、nanacoの導入効果があったからだと考えられる。具体的には単位時間あたりの客さばき率。どうしても1円単位の端数が出るコンビニだから、釣り銭をいじらなくて済めばそれだけ客をさばくことが可能になりそうだ。当然、レジを打ち始めてからレシート渡すまでの時間の統計くらい取っているだろう。
もし、導入効果があったのならば、なぜnanacoをさらに強力に推し進めないのか? これは、ポイントによる利益圧迫がそれなりに目に見え始めたからだと想像する。1/100以下(99円のハイチューを買ってもポイントは付かないわけだし)とは言え、もともとどれだけ粗利を確保できているのか。
ただし、プロモーションしたい商品に+10ポイント(これ、多分、メーカーが負担してるんじゃないか、と思える)みたいなものにはそれなりの効果はあるはずだから、撤退するのかどうかはわからないな。
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