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リチャードギアのハチ公の映画を観に行った。
秋田犬は歴史上最初の飼い犬だとか、4000年の歴史があるとか(でたらめ日本書紀でさえたかだか2650年程度なのに)とか(400年の書き間違え/読み間違えだとしたら佐竹氏の闘犬の歴史と等しくなるから意味が通る)、八という字は上って下がる縁起の良い字とか(末広がりという概念は通用しないのだろうか)とか、嘘八をとうとうと語る日系人の友達がいい味を出していたり、リチャードギアが好好爺然としていい味を出していたりする映画。
元の映画は観てないから、元々、そういうシナリオだったのかも知れないが、シナリオはただ一点を除けば好きだ。嫌いな一点は、最後の最後になって、ちゅーせーしんという嫌な言葉が出てきたことだ。英語でなんといったかは聴いてなかったのでわからないけど。
一貫して、犬がリチャードギアを選んだ、犬が好き好んで迎えに来ている、なんだか良くわからないが誇り高い(ボールを取ってこさせようとしても取って来ないので代わりにギアが取ってきたり、娘のボーイフレンドが取って来たりするのだが、このボーイフレンドの描写は奇妙だが、もちろんボールのエピソードは日系人の友達の話とあわせて物語的な核心になる)ということにしているので、それに対してちゅーせーしんというのはそぐわない。忠実ということにはなるのだろうけど。でもボールのエピソードから明らかにわかっているはずなので、犬自身の何かに忠実なのであって(でも、結局はギアのことが好きだという自分の考えに対してなので、同じこととも言えるけど)、それはいい感じ。
元のお話にしてみれば、時代的な背景がちゅーせーしんを強要する時代なので宣伝に利用されてもしょうがない(1930年代だ)のだが、そういうことにはしていないから、突如、子供の口からちゅーせーしんが出てくるのは奇異な感じ。
あと、ローカル紙に取り上げられるということに対する駅周辺の人々のナイーブさが、いつの時代か、いやいやどうみても現代だけど、2時間に1本しか列車が来ないとか、こういう日常があるからこそ東海岸の田舎町を舞台にする必要があったのだろう、とか。
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