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排除型社会―後期近代における犯罪・雇用・差異(ジョック ヤング)
以前から疑問だったことへの解答らしきものを見つける。
相対的な剥奪感は、これまで「上向きの視線」によって生じると考えられてきた。すなわち、それは労働市場で平等に遇されない者が、能力や資格の面では自分と変わらないのに評価が自分より高い者と自分自身を比較することで、欲求不満を抱くために生じると考えられてきた。
しかし剥奪感は、「下向きの視線」によって生じる場合もある。階層序列のなかで自分より下位にある者と自分を比較し、その人が自分よりも恵まれていると感じるとすれば、それも相対的な剥奪感である。すなわち、自分よりも劣る者が、たとえ自分より低い生活水準にあっても、自分より苦労のない生活をしているように見えるとしたら、それだけで許せないというわけである。
――P.35
この節は、厳罰主義に代表される不寛容について説明をはじめた箇所だが、おれには理屈として納得できる説明だ。もちろん、感覚的にはまったく理解できない(その剥奪感について)。
物語が成立していれば、上向きと下向きは互いに相補的な2つの感情を生む。上向きであれば、取って代わるべしという気概か、かくあるべしという奮起または、脱帽であるという敬意。下向きであれば、かくなりたくなしという軽侮か、明日はわが身という奮起あるいは同情。
物語が消失し、上向きについては畏怖と無力感しか持てなければ、下向きに暴力的な衝動を向けることになる、ということだろうか。
いずれにしても、すでにそういう社会で暮らしていることはわかっている。それなりの組織力と知性と暴力を備えた集団が、銀行を襲ったり企業にたかるのではなく、単なる老人を襲い、それを貯金をもっているのは老人だから当然のような評価を与える人たち、というのはどこから湧き出たかすなのか、というのは謎だった。金はあるところから無いところへ流れるのだから、犯罪者が容易なところから犯罪するのはよくはないがまあ良いとしても、それを容認するかのような言質というのは最悪だ。
何が起きていて、どういう方向を取りうるのか、基準となる正義はあるのだろか、あるとしたらそれはどういう姿を取るのか、といったことを考える。
帯の惹句がその通り。
画期的な書物。驚異的なまでの博識、事実への深い洞察、明晰な論旨と論証が結びついたこの著作に、私は圧倒された。――ジグムント・バウマン
おれは、幸いにしてまだ圧倒されつつある。現在150ページ目(全体の1/4くらい)。(クレイシャーキーは通勤用なので並行読書となっている)
筆者の基盤的な強みは、ニューヨーク市立大学(北米)とケント大学(英国)と大西洋をまたいで仕事をしている点のようだ。そのため、西欧と北米の両方について差異を勘案したうえで論考している。
via 『排除型社会』を読む
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