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・jnlpの修正やコピーを忘れると、常にぐるぐる回るgifが送られてきて何が何やら状態になる。そこは慣れだろうけど。というわけで、インストレーション重要。
・アプレットの作成という点については、これは圧倒的に楽だ。
・JavaScriptと同じ形式のオブジェクト定義式は簡潔で好き。
・移動はTimelineを使うことで手軽に扱える。Timeline上で変化を指定した値を描画オブジェクトの属性に束縛(bind)するだけで済む。
・とは言ってもデザイン心がないとだめだよな。
・ところどころ型指定が必要でめんどうだが、IDE(NetBeans)による候補の絞込みの必然性からはしょうがないかも。確かにNetBeansは必要(WYSIWYGだし)
ユーロスペースで、カネフスキーのひとりで生きる。ロシュフォールの恋人と並ぶ、おれのベストシネマ。でもヴィデオで3桁回数以上観ているロシュフォールと違って、ひとりで生きるを観るのは今回が2度目に過ぎない。
記憶違い:
・人狼が輪を描くシーンはワーリャとの別れの後。
・関連して中だるみがあったような記憶があったが完全に間違い。人狼でうとうとしたので時間感覚を間違えていたようだ。
・スターリンを山本が殺そうとしたエピソードは動くな死ね甦れではなく、こちら。
・最後、線路の向こうに歩いていくのはワーシャではなく謎の退役軍人。
・女の子が落ちたぞーという船外放送があったと思い込んでいたが、単に人が落ちたという通信が港湾事務所に入るだけ。
・ワーリャは髪の毛が短くなっている。(学校の校長室でのエピソードから、放校させられたのではないかとかいろいろ語られない部分が多い)
・鳥は放した瞬間に海へ沈む。
・ワーリャはしつこく鳥を放せと念を押す。
・脚のナイフの説明は唯一の回想。
・不良のたまり場のお尻は男じゃなく校長室に連れてこられた女の子。
・ネズミ花火のエピソード。爆発(は辛うじて覚えていた)の衝撃で意識が吹っ飛び、そのままスターリンの銅像の下でのホラー映画になる。
・ホラー映画は赤ん坊、女性っぽい影、なぞの生き物(たぶん食い物になったマーシャ)の上から跳ね上がるワーリャ。変化した最後の女の子は誰だろう。金髪。
・犬を探す東洋系は山本ではない。と思う。
・山本は鉛筆でメモを書かない。何か書いて渡すという記憶となっていた。
・ワーリャの手紙は途中までしか読んでいない。しかも火傷治療の小便にまみれて見捨てられたままとなる。
・船の中で鳥が家に入るのは不吉だという女の子は見知らぬ子。ワーシャが鳥を捕まえている情景はなく、捕まえて手に持っている状態で女の子に渡す。
・ナイフで刺される直前のデートの相手は、転がりこんだ家の娘ではない。
・豚の名前はマーシャ。心臓の位置を間違えたため、なかなか死なない。
・ワーリャとのせりふは、「100万分の1とかの幸運な星のはずなのに、そうとは思えない」……「愚かな娘だと思う?(というか忘れてるじゃん)」それにしても斧を持ったワーニャの母親から逃げ出して朝を迎えるまでの、この前後のシーンは映画が到達したもっとも美しい愛の情景だと思う。
・学校の階段のところで、廊下の奥のほうへ進もうとするワーシャに、ワーリャは自分のことを守護天使だと言う。
・ワーリャは薪を肩にかけて運んでいると後ろから担いでやるが、そのまま前に押しやってワーシャの背中にぶつけて転ばせる。
・ワーシャは駅員から逃げて遠くへ走っていくので列車に乗ったかどうかはわからない。列車のシーンはそのまま投げ捨てられた大きなつづらから、どうも夫にだまされて全財産を持ち逃げされて肌着だけで捨てられた奥さんのエピソードに変わる。
・風船は、マルクスエンゲルスレーニンスターリンの4人組
・最初は左から山本が馬を連れてくるところを巻き戻して、正面から来るように変える(すでに印象が薄れている)
・風船のところで鼻血を出して倒れているところにワーリャのアップ。で最後の最後で唾を吐かれる。
・学校の舞踏会でジプシーダンスを披露する男は不良側ではなく単なる町のおじさん(たぶん)
・感染症の焼き鏝治療で悲鳴をあげているのは母親なのか。な?
・ワーリャの母親は包丁を振り回して追いかけてくる。
・どこかで包帯を巻いたガーリャとしてワーリャが映るシーンがあった。
・煙の多用。
・サーシャ(という名前のような気がするがパンをもらう相手)が袋叩きにあうのは造船所の宿舎のようだ。
・犬がつながれた杭の回りをぐるぐるするのは、モスクワ行きの直前。完全にワーシャの状態を示している。
悪意があるわけではないのだが、何気なくあるいは良かれと思ってすることがすべて他人に対しては悪意のある行為と思われて、どこにも居場所がなくなり、最後には守護天使に対して決定的な裏切りを行い(でも待てよ。ワーニャが「あの時からよ」と言うけど、そのあの時というのはどのあの時なんだろうか。ガーリャを殺したギャングに話かけていたときなのか、なんか見過ごしてしまったかも)無くした下向き三角形とともに消えていく(海を泳ぎ、たぶん、再び陸へ上がるところで終わっているのかとか)でもどこかでしぶとく生きていく(で3作目で監獄の中のドキュメンタリーという予定調和としか思えないわけだが)、この映画がどうして心を打つのかと言えば、そこに描かれた情景のうまさということになる。
映画は光と影と音の情景をつないだものだが、カネフスキーの2つの映画が特別なのは、ひとつひとつの情景の的確さと、その情景と情景の距離の大きさが(そこは観客が埋めるしかない)、物語的(叙事的な)刺激と感覚的(叙情的な)刺激を過度に高めるからなのだろう。だから観終わった後に残るのは非常にいやな、救われなさと、気持ちのよい、美しいものを観た後の幸福感の両方だ。
映画館の窓口にDVDボックスが発売されるとか書いてあったが、出たらすぐ買うこと。観ていて気づいたが、この映画はいくつかの点でコードを外れていることにされかねない。
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