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みねこあさんの『「気が狂っている」感触』を読んでいて思い出したことがある。
10年以上前のことだと思うけど、アメリカのどこかの会社の出張RDBセミナーみたいなのに出たのだが(日本に出張してセミナーをしてくれたのだが、黒と赤と青の3色のボールペンを使って分析したことは覚えている)、そこで講師の見るからに賢そうな女性が、1対1の例として墓(tomb)のことを持ち出してきた。
で、おれは日本では1対1じゃなくて多対1だと何気なく言ったらさあ大変。いきなり興奮してそんな気持ちが悪いことはあり得ない、それは異常だ。それはあり得ないからお前はおかしいとか、まさに気が狂っている扱いだった。いや、おかしいのはお前の頭だろうと思ったが、後になって考えてみると、あの連中は野蛮だから土葬なんだな。で、連中の狭い了見で死体と死体がミソくそ一緒に押し込められているところでも想像したのだろうと納得してみた。が、今になって思うと、火葬であってもRIPは個人に対して付けられるようにも思えるから、火だろうが鳥だろうが土だろうが、1対1以外はあり得ないという感覚なのかも知れない。宗教もからんでくるから面倒なことである。
さて、ここでtombは日本の場合、ふつうは何々家で1つだが、少なくとも墓石の下では骨壺は個別になっている。
そこでその狭い了見で骨壺と個人は1対1と説明したら、そうではない文化の連中が、いやおれのところでは多対1だと言い出したら、あそこまで激昂するだろうかな? おれは少なくとも、ほおそういう文化なのですな、と興味深く思うだけだが、そうではない人もいるのだろうか? それは個人的な感覚なのか、広く国民的(あるいは宗派的)な文化感覚なのか、どうなんだろうか。
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