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土曜はとちぎテストの会議で東那須野。
東の公民館で開催されるときはいつも遅刻するので(最初の頃は所要時間の見積もりの問題で、次に公民館の場所がわからない問題になった)万全の準備をしたら、今度は早く着き過ぎた。
テストの会に参加するのは初めてなので、始まってしばらくの間というか、ほとんどの話が何を言っているのか(つまりあとになって考えてみれば、何を問題意識としているのか)理解ができない状態というか、同じ言葉を使っているのに異なる概念をそれぞれが意味しているという不可思議なわけのわからなさに驚いた。何を言っているかわからないので、正直なところまったくおもしろくなく、これは一体どうしたものか状態。
最後に、ワールドカフェというなんだかわからないワークショップ(ファシリテーションプロセスらしいが、なるほどこのページの説明を読んで理解した)があって、そこで数人と起きたことについて話し合うのだが、その過程で何を問題意識としてセッションが行われていたのかの認識を共有させてもらえたので、ようやくわかったのであった。
それにしても、テストには(H)と記述するくらいでしかプロセスの共有ができないらしいとか、同じステートチャートが切り口が異なるとまったく異なるものに見えるとか、コミュニケーションギャップだとかいろいろ勝手が違って興味深い。
特に不思議だったのは、テストする人と、開発する人の間に、壁があるらしいことで、アジャイル開発が、クライアントとプロバイダーの壁を低くして、問題に対する挑戦する側対問題という図式に切り替えようとしている遥か手前のところに、開発者対テスト者という図式があるようで相当に違和感がある。が、そういわれてみればやたらと挑戦的なテストレポートを見たことがあるので、そういうものかもしれない。人対人とせずに、人+人対課題という図式に持っていけると効率が良さそうだな。が、数値目標が異なるチームを同じ図式に持っていくと別の論点が出てきそうだなぁとか想像もつくので、社会的構造というのは理不尽なものにしたがる方向で作られているのだな、とも思う。
後になって頭数を多くしてテストをするという方向性についてちょっと話し合ったりもしたのだが、それはそのまま頭数を多くしてソフトウェアを開発するということに似ていて、どこまで労働集約的に解決したがるのかに疑問を感じたりもした。
これまでの日本の歴史を紐解いても、労働集約的に、つまり多数の力を合わせてうまくいったという成功体験というのはどこにもないはずだ。したがって、成功体験によってその手法に固執しているとは考えにくい。不思議だな。
と、かってない体験ができた得難い会議だった。主催者および参加者のみなさん、ありがとうございました。
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