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22と23、続けて2回、東劇でメトライブビューイングのジュリオ・チェザーレ。
それにしても、なんでイタリア語なのにユリウス・カエサルじゃないんだ? とか不思議に思っていたが、ラテン語はイタリア語じゃないのだな。これはなんかおもしろいと思った。聖徳太子は大和言葉だろうが日本語だろうがしょうとくたいしだったりするわけで、ここまで同じ国の同じ民族の国民的英雄が当時と現在とでまったく違う名前になってしまうとは。
で、2回も観たわりには、ゆっくりした曲はどえらく退屈して思わず寝てしまうのだが、にも関わらず、2回も観に行くほど、とんでもなくおもしろかった。
まず、マクヴィカーの演出が素晴らしい。きっといろいろ考えたのだろうが、主要人物がカウンターテノール(シーザー、プトレマイオス13世(なぜかトロメオという名前)、クレオパトラの召使いのような宰相のような多分宦官の人(ニレーノ))なので、マクヴィカーの性的な演出がなぜか影をひそめて、楽しく愉快なオカマショー(という表現だとちょっと違うが、頭の中にあるのは、ローザフォンブラウンハイムのような、陽気で活気がある舞台芸能だ。あまりに、その演出が自然で楽しいので、いつもの妙に男女のセックスを強調する影のある演出は、自分の嗜好を微妙に隠したいのかなぁとか勘ぐりたくなる。(とは言え、史実として姉弟にして夫婦というプトレマイオス朝の王と女王の振る舞わせ方にはマクヴィカー調がちょっとは見えるが、徹底的にコミカルな演出にしているため、いつもの淫靡さはみられなくて、やはり楽しい)
それに比べるとアメリカ人のデイヴィッドダニエルズ(カエサルの人)は、幕間インタビューで堂々とパートナーのスコットだかデビッドだかがルネのファンだから羨ましがるぞとか話していて、お国柄の違いとかを考えたり。
特に終始にたにたしている従者2人をしたがえたニレーノの歌、クレオパトラのほぼすべての歌(でも、やっぱり最後の飛行船までやってくる突如19世紀が20世紀へ進んで第一次世界大戦となる歌が最高で、これもニレーノの歌と同じく2人従者を従えてセンターで歌う。妙にかくかくした振り付け含めて、インド映画の影響なのか、それともパフュームのPVをマクヴィカーが見たとかで、そのあたりの影響じゃないのか、とにかくオペラとしては例を見ない振り付け(バリ島っぽくもあるけど)、お風呂の歌や、絨毯から出て来た歌)、カエサルが暗殺計画を知って奮い立つ歌(この間、クレオパトラがちょこまかちょこまかカエサルを止めようとじたばたするのだが、デュセーならではの、こまねずみっぷりが実にかわいくて楽しい)、まるでカエサルが心優しい熊のように野原と草と花を歌う歌(クレオパトラというかこの時点ではリディアの部屋へ行く前に、ニレーノがお茶を出す)はヴァイオリンと声の競い合いでびっくくりするほどおもしろい(フィナーレはホルンと声の競争っぽい)、最初のアッチーラが持ってきたポンペイウスの首に抗議するお前は冷血だの歌(史実でも、許してやることができなくて残念がったらしい、というかカエサルは真の大物だから、まるで趣味のようにどんな敵でも許す(なので、また裏切られたりするし、最後は殺されることになる)などなど。
プトレマイオス役の人は、剣舞はするし、トンボは切るしで、動きが実に良い。でも歌はほとんど覚えていない(アッチーラと剣舞している歌は歌より剣舞がおもしろくてまったく印象に残っていない)。でもおもしろい。
これが、セストとクラウディア(ポンペイウスの奥さん)が歌い出すと途端につまらなくなるのが問題だ。というか、クレオパトラを除いて、女性に対する劇内の扱いがぞんざいなのもマクヴィカー演出っぽいなぁ。曲自身がセストとクラウディアが出てくるとうっとおしい作りになっているが、演出もそれを助長している。(2幕最後のクレオパトラがカエサルを心配する歌は似たような傾向な曲なのに悪くない)
それにしても、アリアドネの頃はまだ若かったからそれもありかなぁとも思うが、いまだに臍を出せるドゥセーという歌手は本当に稀有の存在だ。ソプラノはたくさんいるが、臍を出すソプラノは本当に珍しい。
演出、演奏、歌手、すべてひっくるめて、真のマスターピース。ただし、音楽は相当退屈。
それにしても、この奇跡のようなプロダクションはどういうことなのだろう? たまたまマクヴィカーが何かの機会に思うところがあって演出し、たまたまデュセーが年齢から来る高音の衰えからバロックに目を向けて(以前読んだフラグスタートの自伝で40過ぎてからはパーセルだかヘンデルだかにレパートリーを移したとか書いてあったので、おそらく同じようなことなのかなぁと思っている)クレオパトラを歌うようになっていて、たまたまMETの常連にダニエルズというカウンターテナーがいて、というようなことからまとまったのだろうか。
(マクヴィカーのクレオパトラは、古典的なクレオパトラでは全然なく、当時21歳(プトレマイオスは19歳くらいだ)ならではのおちゃめでちょっと小賢しく、しかし成長もする小娘の役柄で、指揮者曰くの「猫のような小娘の成長譚」。港でローマ軍を呼ぶという設定の歌が実際には『嵐で木の船は砕け』というのは読み替えの妙だなぁ)
ヘンデル:歌劇《ジュリオ・チェーザレ(ジュリアス・シーザー)》グラインドボーン音楽祭2005 [DVD](ウィリアム・クリスティ指揮)
(いや、ドゥセーがいいな)
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ラテン語のイタリア式発音視点だとなーんも変わってないので、「まったく違う名前」というのはたぶん気のせいです。それに聖徳太子は当時は(その名で呼ばれてないはずだけど)「しやうとくたいし」ではないかと。
ラテン語には複数の読み方(まるで漢字みたいだな)があるみたいですね。聖徳太子は聖徳太子だと思いますよ(奈良時代あたりを想定しているわけなので、むしろ平仮名はまだできかけなんじゃないかな)。
「聖徳太子」についても音の話ですよ? 日本でも当時の発音と今の発音はそれなりに違うという指摘だったつもりなんですが。ちなみに、ラテン語の方は、カエサルの生きてた前1世紀の発音はよくわかりませんが、その100年後くらいだと「ゆりおす・ちぇさる」くらいの発音だったと想定されています。ひょっとすると既に「ゆ」→「じゅ」の変化も芽生えていたかもしれません。語末の「す」はまだ消えていなかったようですが。
正直なところ、しやうとくたいしとしょうとくたいしの違いはどうでもいいです(この程度なら同時代でも地方で違う)。キムデジュンとキンダイチュウとかカエサルとチェザーレくらい違わないと全然興趣が湧かないですよ。<br>もっとも元々はラテン語にゲルマン読みというのがあって、日本ではそちらが比較的使われる(カエサルが通用している)というのを僕が知らなかったので(これはcuzicさんに教わった)、同じイタリア語でも随分と音が違うなぁということを思ったのでした。で、うささんのツッコミで、同じ漢字でもえらく違うということに思い当ったというとこですね。
>語末の「す」はまだ消えていなかった<br>これは不思議な話ですよね(イタリアでは子音終了がほとんどないのに、他の国では残って、でもフランスでは発音しなくなったりとか、漢字と同じく元の言語の表記用に当てはめたり補ったり崩したりしているうちに、てんでん違ってきたところ)
語末の「す」は3世紀くらいまでには発音から消えますです。
というか、そもそもジュリオチェザーレにsは無いですよ。Giulio Cesareなので。
思い出したけど、綴りがイタリア語とラテン語で同じローマ字なのに全然違う→発音も違うぞ、という順番だった。
カタカナでなく、IULIUS CAESARからGiulio Cesareだとずいぶん変わったな、と書いておられたら、表記の話と解釈して最初からツッコミ入れてないです :) 発音はむしろ意外と変化してない、日本語だって発音は相当変化してる、と言いたかったので。
おかげで、ラテン語が地域によって読みが違う(漢字みたいだ)とか、3世紀あたりにsが消えたとか(何があったんたろう)とか、いろいろ教えてもらえて有り難かったです。ありがとうございます。他にもイギリスのヘンデルもイタリア語だとかあるけどそれは書いてない。
あー、語尾のsが消えたのは「3世紀ごろまでに」であって、2世紀とかに消えてるかもしれないです。地域差や社会階層差もあるでしょうし、音韻史はとかく辿りにくい。この辺は、発音に引きずられてミススペルをした資料とかからしか復元できないので、特に識字率の低い庶民階層の実際の発音は復元が難しいんですよね。