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木村さんは実在した人物の取り上げ方を酷評の理由ではないかと推測されているが、僕はまた違う推測をしている。
優れた作品だと思うし、その一番の理由は芸術に対するストレートな表現にあると考えているわけだが、それと同時に欠点もある。
おそらく、酷評のうち、「これはゴッホではありませぬ」という10月に対するプレハーノフのような愚かな連中はともかく(単に愚かだからだ)、打ち切り説とか兄貴が出てからつまらない説、後半駆け足説(打ち切り説の一種だな)についてはそう読むのもありだなとわかる。
巻頭というか第一巻の中途までのセオの快刀乱麻っぷりが絵柄の良さと相まって、あまりに魅力的だからだ。
結末を持ってくるには、セオが圧倒的な才覚の持ち主の必要があること、短期とはいえ連載をやる以上は最初に読者を掴まなければならないこと、この2点(もっと理由はあるかも知れないが、これだけで十分だ)を、最初のセオのパートが満たし「過ぎて」しまったのが問題で、そのあたりのセーブのできなさが作家がまだ新人に近いというところの経験不足なのだろう。
ようは、ここまで魅力的な主役を打ち上げてしまえば、その作品はこの主役が以後、パリの画壇(それにとどまる必要は全然ないわけだが)を舞台に、次々と発生する事象をスマートに解決していくタイプにしか読めない。
ところが、実は、スマートなセオ、当時のパリの画壇、画以外に何も能力がないフィンセント、二人の過去と因縁、フィンセントの飛翔、炎の画家の誕生という6つのパートをページ分量的にはバランス良く配分した作品だ。
ということは、頭でっかちでバランスが悪く、そのためぶざまにすっ転んだ(打ち切られた)ように、確かに読める。でも、ページ配分のバランスは別におかしくない。おかしいのは、最初に書いたように、冒頭からのセオの快刀乱麻があまりに魅力的な点だ。
実はフィンセントの無能っぷりパートでも、恋人に捨てられた婆さんのエピソードとか、なかなかうまく書かれているのだが(というか感動的でさえある)、セオと比べるといつもにこにこ、怒りを知らない無能もののフィンセントなので、お話の上ではともかくマンガとしては弱い。
と、作品としての欠陥があるのは読了して思ったが、そうはいっても、意図をはずさせないために、わざわざ現代のパートまで入れているわけだし、欠陥といっても、極度にポジティブ側に振り切れた結果なのだから、まあ悪いことではない(悲愴以外のチャイコフスキーの交響曲がどれもこれも、1楽章が実に素晴らしいのに、2楽章、3楽章、ああ、これもか(ピアノ協奏曲もそうだ)というのに良く似ている)。
というわけで、デビュー作も買ってみる。
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