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リヴェットが死んでしまった。
これで僕が観ることができるヌーヴェルヴァーガーの生き残りはゴダールただ一人だ。
(それはあまりに似合い過ぎている。生き延びることこそ肝要だというサムに献辞を入れた映画の作家だけのことはある)
1980年代の最初の頃、リヴェットは幻の作家で、アテネで王手飛車取りを観ることができたくらいだった。
今となってはゴダールが延々とレコードをかけ続けること以外さっぱり記憶がない短編映画で、まだ1950年代だと思うが、ネーヴェルヴァーグの草創期の雰囲気を伝えるものらしい。が、まったくそういうことは伝わらず、ただただ静止した画が紙芝居のようにうまくつながっている変な映画としか覚えていないし、多分、ロメールの獅子座のパーティーシーンとごっちゃになっていると思う。
というわけで、夜想のヌーヴェルヴァーグ特集を読みながら、はて12時間の映画とはどのようなものだろうか? とか、ビュルオジェとはどのような女優なのだろうか(とはいえ、ラパロマは観ているはずだが)? とかカトリックを激怒させるとはどのような映画なのだろうか? とかいろいろ想像することしかできない。
夜想 (11) 特集 ヌーヴェル・ヴァーグ25(陽一, 国貞)
(バイブルみたいなものだなぁ)
次に観たのは北の橋で、これは1981年制作らしいから1984年くらいではないだろうか。
アテネの大ヌーヴェルヴァーグ展(10本くらいの連続上映会)に入っていたので、おおこれがリヴェットですかと喜び勇んで観に行って仰天した。
英語字幕があったかどうか定かではないし、当時のおれの英語の語彙はフランス語よりちょっと多い程度だったから役には立たず、つまりほぼ音声聴き取りでしか物語の構成情報を得る手段がなく、ということは映像と音楽以外の情報は半分未満程度しか得ることができないという状態にもかかわらず、すさまじくおもしろい。
パスカルオジェ(まだおれは満月の夜は観てないはずで、顔を知っているはずはありえないが、これがパスカルだなというのはすぐわかった。というのは主演女優として映画に映されていたからだ)がバイクに乗って出てきて、メニンブラックに追いかけまわされて、遊園地のジェットコースターの龍と戦い、ビュルオジェと合流する(けど親子としてではないと思うのだがまったくわからない)。カンフー映画のようでありアルファヴィルのように現実世界をそのまま水平に時間軸だけをずらしたSF映画のようであり、目が離せない。が、最後のほうになるとお遊戯になってはて面妖なと狐につままれた(今になって思えば、カサヴェテスのオープニングナイトのラストにも通ずる手法だ)。
映画でありながら演劇的であるというのはどういうことなのだろうか?
唐十郎が恐怖劇場アンバランスの仮面の墓場の上映会(スペースパート3か300人劇場か覚えていない)で説明する。
演劇にはクローズアップがなくすべてが全身だ。目線の演技は顔全体か身体全体を使って向きを変えて表現する。
それをバストショット主体でむしろトーキングヘッズが多くなるテレビでやるとバカに見える。目線が重要だ(20世紀のテレビは最大サイズでも28インチがせいぜいで通常は15インチ程度なのだ)。演劇人は舞台のクセで身振りが大きくなるが、それをテレビでやると異化効果となる。テレビでは動いてはいけない。
だからおれは恐怖劇場アンバランスでは狂気に陥ってから演劇人としての身振りで階段を落ちた。
そこから敷衍して考えると映画であり演劇的であるというのは役者の身振りに示される。
ファスビンダーの記念すべき第1作の不安な魂を観て、演劇人が映画を撮るというのはこういうことなのかと知ったのはもう少し後のことだ。クラフトワークのマンマシーンのジャケットのように斜めに並んだ連中がいっせいに顔の向きを変えるとカメラが切り替わり、向いた方向のシーンとなる。
リヴェットは全然違うようだ。より静止画に近く、それは王手飛車取りで感じたものだ。
というのが、初めてリアルタイムに輸入された四人組で感じたことだ。ユーロスペース。制作が1989年だからすでに1990年代に入っていたのではなかろうか。
ポルトガルから留学してきた女学生をはじめとした4人の女性の共同生活を、ロビンミューラー風な青い静かな映像の中で描いた作品で、すさまじくおもしろかったにも関わらず今となってはほとんど記憶にない。記憶にあるのは、陰謀に巻き込まれた四人組(もちろん、この題に、すでにすさまじく政治的な意図があるのだが、なぜか全然関係ないおしゃれな題(彼女たちの舞台)で公開されたが、舞台というところに意図がありそうではある)が善後策を協議するところで、ポルトガルから来た女性が「私の国(ポルトガル)みたいな独裁国家では普通のことだけど、この国にもあるのねぇ」とかしみじみと言うところだ(もちろん模造記憶の可能性もあるが、この一言がおれのポルトガルへの興味となる)。会話の多用というのは演劇的でもあるが、ロメールのそれとは異なり、全体的にとにかく静止しているのだ。構図は常に正しく、したがって美しい。が、何か映画としては欠落しているものがあるような気もした。
とはいうものの映画として実際おもしろかったし、物語的にも刺激的、映像は(何しろロビンミューラー系なので)おしゃれだからそれなりに人が入ったに違いない。
すぐさま美しき諍い女が今度はぶんか村にかかった。
大ヒットである。
が、おれはこの映画、まったく記憶に残っていない。四人組の印象がその頃は強くて、どうも大きな後退戦のような印象を持ったので記憶することを自然と拒否したのかも知れない。
そしてヒットの余勢を借りてパート3かパルコ劇場かどちらかで大回顧展が行われる。
セリーヌとジュリーは舟でゆくと嵐が丘と地に堕ちた愛だ。北の橋も上演されたような気がする。こんだ日本語字幕があるので物語は読めるだろう。しかし行ったかどうかは覚えていない。北の橋の映像はすでに記憶されているし、仮に観に行ったとしても最初にアテネで観たときに得たものと同じものを得たのだろう。
地に堕ちた愛は階段に続く廊下だけが記憶にある。ジェーンバーキンかな。
セリーヌとジュリーは舟でゆくは本気でおもしろかった。いつまでも観ていたい映画だ。映画の中の映画でこんなおもしろい映画はなかった。(ところが映像記憶がまったくない。クローゼットの中にへたりこんで異界と行き来するような映像が頭の中で結びついているのだがおそらく関係ないと思う)(追記:突然舟に乗った川下りとかバスタブと香水瓶(シャンプーの瓶かも)とかが後から浮かんできた)
つまり嵐が丘が最もすばらしかった。これが嵐が丘だったのか。
リヴェットは演劇人だったのだ。筋が通った物語を与えられるとそこに自由に血と肉を与えて世界を構築する。物語が弱いと世界があやふやとなり単なる演技空間だけが残る。そういうことなのだ、と考えた。
やっと修道女も観ることができた。と思う(これについては時期は完全に忘れた)。修道院を脱走するところ、修道院長に呼び出されて通う中庭、ビュルオジェの顔(追記:と書いたものの、どうも黒髪だし変だなと思って記憶内の画をクローズアップしたらアンナカリーナのように見える。多分この映画はアンナカリーナだ)、記憶は随分と残っている。才気が一番走っていたころに不遇な目にあったのだなぁと同情する。
そしてしばらくご無沙汰してパリで隠れん坊をする。
おもしろかったのだが、残念。同じ時に、まったく良く似たパリで若者が右往左往する映画、しかし遥かに大傑作を観たせいで印象がすっ飛んでしまった。
つまりデプレシャンのそして僕は恋をするだ。
デプレシャンは考えてみると、やはり演劇と映画の融合だが、リヴェットより遥かに巧みだ(それはそうだ。学んでいるのだから)。しかも世代が同じせいか遥かに好感も持てる。とにかくおれはデプレシャンが好きだ。
とはいえ、唐突に路上でばったり出会った二人がミュージカルになるところは素敵だった。(追記:パリから故郷かなにかに戻ったところの灰色の四角い建物――病院かな?――の部屋のシーンを後から思い出したけど一体どんな話なんだ? やはり陰謀の話なのだろうか)
そして世代が交代(もちろん本当の世代交代はとっくにジャンユスターシュなどによって図られてはいたのだが、遠く日本で葦の髄から映画を観ているおれにとっては)してさらにしばらくってランジェ公爵夫人を観て瞠目するのだが、嵐が丘と同じだ。バルザックの作品という筋が通った(いやこの話については通っているとは言い難いのだが、それは物語の筋の話で、物語の構成に筋が通った)作品だからこそのおもしろさだ。
と、考えてみると、セリーヌとジュリーこそが奇跡なのだと思い当る。確かに奇跡な奇跡の作品だ。
北の橋 Le Pont du Nord [DVD](ビュル・オジエ)
(これは無茶だけどおもしろかったなぁ。セリーヌとジュリーをもう一度やろうとしたのではなかろうか。で、それはこれが最後になったのではなかろうか)
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よく映画を見てるね〜<br>ヌーヴェルヴァーグはゴダールくらいしか観てないし、フランス映画もあんまり観てないけど、観てみたくなるよ。
見るならデプレシャン。