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新国立劇場で夕鶴。
夕鶴を観るのはこれで2度目だ。最初は10年近く前に虎ノ門のNTTのホールで観たはず。
題材は鶴の恩返しだが内容は全然違う。
鶴の恩返しは妻の秘密を覗き見したいというどちらかというと性的欲望と眼差しの作品だが、夕鶴では覗き見の禁止は単なる契約に過ぎない。契約に過ぎないので主人公の与ひょうが何も理解していないにも関わらずつうは去ってしまう。むしろオッペルと象に近い内容となっているように思う。
村の子供たちが遊んでくれるおばさん(与ひょうの妻のこと)の家に来ると与ひょうが一人で昼寝をしている。妻が織った布がそれなりの価格で売れたので仕事もせずにぷらぷらしているのだ。
与ひょうが子供と遊んでいると、運ずが惣どを連れてやってくる。運ずが町で売った布がとんでもないお宝であり、価値がわかる都人に見せれば10倍以上の価格になると惣どが気づいたからだ。これだから価値がわからない田舎者は困ると惣どは考えている。
運ずの話から、惣どは、与ひょうの妻が鶴人間で、その化生の力でお宝を生み出したということを想定している(夕鶴では人獣交婚はまったくの想定内でそこには何の不思議もない)。山の湖で女性が鶴に化けて水浴びしているのを見た人がいるから、鶴人間がいることはわかっているのだった。
与ひょうは2人に最後に売った布でおしまいだと説明する。織るたびにつうが痩せてしまい、これが最後と引導を渡されたと説明する。確かにこれ以上は無理だろうと言う。
惣どは与ひょうの妻が鶴だと確信する。獣であれば別に死んでも良い。ならば、与ひょうをたきつければもう1枚くらいは手に入るだろうとそろばんを弾く。自分の取り分を5、運ずの取り分を3、与ひょうの取り分を2くらいでも莫大な金額(与ひょうが運ずにぴんはねされた額を手にしただけで村ではぷらぷらできる程度の金額になるわけだから10倍で売ったうちの50%ならなかなかの大金だ)。
そこで二人して与ひょうに都を見物して都で買い物をすることに対する欲望刺激策に出る。
与ひょう、すっかり都に行きたくなる。
かくしてつうにもう1枚織ってくれと頼む。
つうにはまったく理解できない。そもそもきれいな布ができたら二人で眺めて楽しもうと思っていたのに運ずに渡してわけのわからない硬くて丸いものに変えてしまったことがわからない。しかしそれで食べ物などを自由に買えるので不思議なものだなぁとは思っている。助けてくれた与ひょうのやさしさが好きなのだが、なんでお金がからむと優しさがなくなるのかなぁ。なんだかよくわからないが与ひょうが喜ぶのであればしょうがないとあきらめて機織り部屋へ閉じこもる。
惣ど運ずが戻って来て確認のために与ひょうが止めるのを振り払って機織り部屋を覗いてみる。なるほど魂消たが予想通り、鶴が布を織っている。よっしゃ売って売って売りまくるぞと誓いも新たに帰る。
夜中になってもつうが戻ってこないので与ひょうは心配になる。もしかして機織り部屋で倒れているのではなかろうか。惣どや運ずが覗いたため部屋の扉は開いている。覗いてはだめだという約束を最初は守っているが、だんだん不安が大きくなる。
つう、つうと何度も呼びかける。が、返事がない(鶴なので嘴を使って機を織っているからかな)。
ついに心配でたまらず覗いてみる。と、鶴が機を織っている。
なんと、つうが居ないではないか。
つう、つうと呼びながら外へ探しに飛び出す。
1場終わり
惣どと運ずが、雪の中を倒れて埋まっていた与ひょうを助けて家に戻しに来る。与ひょうはつうを探して一晩中雪山を薄着で駆けずりまわって倒れてしまったのだ。
与ひょうの前につうが布を2枚持って出てくる。これでおしまいだ。飛ぶのに最低必要なだけの羽根しか残ってないし、あんたは覗き見したから私は帰る。つう、鶴に戻って飛び去る。
与ひょうは崩れ折れる。
おしまい。
木下順二が何を考えたかはわからない。発表は1949年敗戦3年目、レッドパージもまだなら朝鮮戦争もまだという隙間の時代だ。そこに経済至上主義批判というのはあまりに後付けの見方と考えられる。もっと違うものを書いたと考えるほうが時代的にはありうる。3年前にこてんぱんにされた原因となった帝国主義の膨張を支えたのは与ひょうのような無垢な欲望だという国民的自省が近いのではなかろうか。そう考えると惣どと運ずの二人の音頭取りがなんのお咎めなしで、与ひょう一人が何が何だかわからないうちに一人だけ罪を背負わされる(罰は愛妻の喪失)という妙な構造にも合点がいく。
木下順二は1914年生まれということは物心ついたときの日本というのは日本列島、南樺太、太平洋諸島全部、台湾、沖縄含んだばかでかい国(海ばかりとは言え太平洋ほぼ全域を含むんだから地球の1/7くらい)だったわけだから、飛べるだけの羽根=日本列島4島(1949年ではオキナワはアメリカの占領下)と考えることもできる。とすれば、優しさにほだされて与ひょうの妻になったものの与ひょうの愚かな帝国主義に愛想がつきて4島だけ残して去って行った日本とみることもできる。(で、実際それだけあれば飛べるわけだったのだが)
経済至上主義批判という見方は、1970年ころに夕鶴ブームがあったらしいので、そのころに生まれたものではなかろうか。それなら高度経済成長によって失われるものについて再考しようじゃないかというオルタナティブとして理解できる。
現代の耳で聞くとオペラとしてはあまりうまくない。2場冒頭のドビュッシーで始まりチャイコフスキーを経由するような音楽や、トゥランドット(というよりも1曲しか知らないがザンドナーイ)を思わせる新イタリア学派のような響きと日本風なメロディの妙な作品で、管を多用しているので声がつぶされてしまうところが多い(たとえばザンドナーイだと最大に盛り上がるような箇所では歌を入れないが、夕鶴では歌のクライマックスに一緒に管弦楽も強くなってしまう)。編成が小さいのに新国立劇場のオーケストラピットが相当下のほうに沈められていることからもそれがわかる。歌の抑揚も微妙だ(どうも木下順二が團伊玖磨に一言一句変えるなと注文をつけたらしいから、音楽に言葉を載せるのが無理なところが出てしまったのだろう)。
とはいえ1950年ごろの作曲ということと、木下順二の無理な注文(プッチーニやヴェルディあるいはシュトラウスがどれだけ言葉のマジシャンみたいな台本作家連中に注文をつけて言葉を直させたか知っているわけで、発声の言葉と歌の言葉は違うのだ)を考えれば文句なく名曲だとは思う。
演奏は素晴らしかった。
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