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日々の破片

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2016-10-10

_ 山城を愛でる

先日、群馬の箕輪城に行ってみてえらくおもしろかった。

以前から不思議だったが、天守閣というものを作ったのが松永弾正で、それに続いたのが信長の安土城だということだ。

ということは、お堀に石垣、漆喰に瓦みたいな城は、どう考えても、戦国時代には存在するわけがないし(上記の2つを別として)、ということは歴史映画とかで城攻め(秀吉の高松城攻めでもなんでも良いけど)するのに、石垣やら江戸城の周りのような水を湛えたお堀やらがあるわけがない。

天守閣の天守というのも不可思議な言葉だ。おそらく松永弾正とポルトガルあたりからやってきたパードレの間で次のような会話があったに違いない。

「で、お前さんの国の都はどうなってんだ?」

「町は石の壁で囲んでありまする。その真ん中にはピアッツァがありましてな、そしてそこにはドゥオーモがあるのでございますです(なぜかイタリア語が入るのはおれがポルトガル語をまったく知らないからだ)」

「そのドゥオーモとはなんぞや?」

「天にまします主が住みたもう大きなお屋敷でございますです」

「よくわからんが、その国の主人が住むでっかな屋敷なのだな」

「で、尖塔がございまして、ガーゴイルがいますですます」

「なんじゃ? そのガーゴイルとは」

「こんな感じで(と絵を書く)、尖塔はこんな感じで(と絵を書く)」

松永弾正しばしその絵を眺め、はたと膝をうつ。

「つまり、この国の主であるおれが住む、石で囲みを作った天まで届く楼閣というわけだな。天まで届く楼閣に主人が住むなら、日本の言葉で天守閣と呼べばよいに違いない。で、屋根にでっかな魚の化け物の飾りをつければ良いと(鯱がここに生まれたわけだが、このパードレは絵が下手だったのでなぜかのけぞった魚に見えたのだ)。では作ってみるか、住んでみるか」

で、信長がそれを見て、「待て待て、第六天の魔王たる日本の主人たるおれが住むのも当然、天守閣じゃなきゃおかしい」と安土に作る。

それを秀吉が真似する。3閣作ればそういう築城技術というものもある程度は知れ渡る。藤堂高虎とか設計の才能があるものが先頭に立って、そこら中に作りまくる。というようになったに違いない。

ではそれまでは何かと言えば山城に住んでいたわけだが、これがさっぱりわからない。

その昔、新府城跡に行ったことがあるが、単なる片側が崖の山だし、まさか野武士や山賊ではあるまいし、どういうことだろう?

というような疑問が氷解したのが、箕輪城だった。とはいえ、上野氏が築城したものが信玄に滅ぼされ、その後長いこと北条氏が住み着いて、徳川時代になると井伊直政が一時居城として(その時点で石垣が導入されたっぽい)いて、さらに高崎への移動を命じられて破壊/廃棄したということで、上野氏時代の縄張りは残っていても遺構としては江戸時代に入った後のものだ。

それでも南斜面にいくつかの廓を配し、西は川と崖、東は登り口、北は裏口でこれまた険しくしておいて、井戸を掘って水を確保し、川と南の降りたところに田畑を広げるという様相から、なるほど搦め手が水攻めするにはどうやれば良いか、兵糧攻めするには囲めばいけるとか、逆に籠城するには前に広がる田畑から城内にすぐに運べる仕組みなのだなとかいろいろ見て取れるのがおもしろい。

そこら中に堀があるが、どうも空堀らしい。馬で来れば転げ落ちるし、足軽が攻めて来てももたついて底に降りたら上から石やら矢やらを打ち込み放題だ。

で、今日、たまたま嵐山の渓谷を見てみようと思ったが場所がさっぱりわからないので、嵐山の町役場に行って観光マップのようなものがあればもらおうと向かった。

なぜか町役場は小高い山の上に蟠踞していて、まるで山城だが、おそらく駐車場を確保しやすいからそうなったのではなかろうか。

で、役所に入ると杉山城のジオラマというのが置いてある。

これが北が崖、西に川があり険しい斜面で南にジグザグの登り口と、箕輪城で見たものと良く似たような地形を利用した山城で興味を惹かれた。どうも私有地を好意で見学できるようにしてあるとか書いてある。しかも築城主は不明とか、いろいろ要領を得ないことが書いてある。

かくして行ってみることにした。

杉山城は箕輪城よりさらにおもしろかった。

というのは、どうも戦国時代を待たずに廃城になったようなのだ(そのため記録がないので築城主から何からわからないようだ。鎌倉から室町期あたりかなぁとかそんな案配だ。鎌倉街道を向いているからいざ鎌倉で狼煙があがれば駆けつけるようになっているのか、鎌倉から中央軍が攻めてくるのに対抗しようという地方軍閥の居城なのかさっぱりわからん)。石垣の痕跡すらなく、廓(居住や兵士を集めておくための建物というか建物を建てられるような場のことのようだ)を作るために土を削って平にしたり堀(当然空堀なんだろう)を掘った土を盛り上げて土塁にしてみたいな感じだ。

おそらく徳川の息がかかった連中(埼玉は基本的に天領だから)が見つけたら箕輪城のように堀を埋められたりすると思うが、そんなこともなかったようだから、遺跡そのものとして山の中の木立に埋もれていたに違いない(あるいは、猪俣党ではないが、そのての地方豪族が普通に住み続けていたのかも知れないが、であれば記録がもう少し残っているだろうから、やはり山の木立の中に埋もれていたに違いない(まるでアンデスのピラミッドのようだとかいろいろ考えて実に楽しい)。

どうやって敵の侵入を防ぐかを図解した解説がところどころに立て看板になって置いてあるが、すべて白壁を書いて、何気なく江戸時代の城っぽくなっているが、おそらく本来は土を盛ったまま(苔や草は生えるだろうが)の、今見える姿(城の姿が見えるように整備されていて、どうも猪俣といい、埼玉北部の人の文化遺産を保存しようとする意志には頭を下げざるを得ない)にそれなりの居城や馬をつないだり、守備勢を後ろに置くための(西の斜面が竹藪になっているから)竹矢来を配置したりしてあった程度だろうと想像する。戦場となった様子もないのがまた興味深い。

ここらの山城を作った職人が群馬のほうまでそこら中に似たような城を作りながら旅をして、途上で箕輪城も手掛けたのかなとか、南北ラインで他にもそこら中に似たような山城が残っているのかなとか(嵐山のあたりは関東平野に唐突に山がぽこんぽこんと幾つか突き出しているのだ)考えたりして楽しく過ごした。

埼玉は実におもしろい。


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