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日々の破片

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2020-09-06

_ ペストとコレラ

ペストの発見者のイェルサンの生涯をランボーやセリーヌなどとからませて書いたおもしろい伝記というので買って読んだ。奇書だった。

そもそものイェルサンというのがむちゃくちゃな人で、最初医者を志して勉強し、パリ市立病院で助手として働いているときに、狂犬病で死んだ人の保菌状況をパスツール研究所のルーに示したところ、顕微鏡操作の技術的手腕を認められてパスツール研究所に雇われる。

そこでジフテリア、結核菌などを発見するが、少年の頃からの夢、冒険のために研究所から飛び出る。とはいえ、これだけの研究者を手放したくないパスツール研究所とフランス政府のはからいで船医としてアジア客便に乗ることになる。が、さらにベトナム(当時なので仏領インドシナ)とフィリピンの往復便の船医となり、インドシナの寄港地から当時未開の東南アジアのジャングルを探検しまくる(地図も作る)。

と、以前読んだ、世界の測量のガウス(電信のために晩年は野山を駆け回るが、基本、帷幄の中で論理を巡らす)とフンボルト(南米を探検しまくる)の二人を一人で演じるような怪人っぷりを発揮する。

世界の測量 ガウスとフンボルトの物語(ダニエル・ケールマン)

同じ頃、アラブで怪我を負ったために敗血症で死ぬランボーがいるが、インドシナの山奥で山賊の大将の槍を胸に受けたイェルサンは、感染症を知っているため、自分で消毒し自分で治療して一命を取り留める。

一方、その頃香港でペストが猖獗を極めている。

パスツール研究所から、ペストの研究をしてフランスの国威を示せとイェルサンに指令がくだる。

しかし、香港は英国領で、英国は独逸と仲が良い(?? と最初は思ったものの、第一次世界大戦前は、対ナポレオンという点で一致していた英独の仲は悪くなかったのだろう。それで、明治政府は陸軍はドイツ、海軍はイギリスと、(その後の歴史からは考えにくい)提携先を選べたのだな、とこれ読んで初めて得心した)ため、コッホの研究所に支援を依頼し、コッホは香港に近い愛弟子北里柴三郎集団に依頼していた。

かくして、香港の伝染病研究所のイギリス人の所長はイェルサンをはなから相手にしない。

しかし、同じカソリック教国のイタリア人の神父が尽力して、とりあえずイェルサンに居場所と死体を提供する。

北里柴三郎集団は、血液に着目してペスト菌を探す。

一方、イェルサンはリンパ節に着目してペスト菌を探す。そして見つける。培養にも成功。それをパスツール研究所へ論文として送る(といっても船便)一方で、仁義上イギリス人の研究所長にも示す。

イギリス人は血管ではなくリンパ節で探すように日本人の北里集団にこっそり教える。

しかし、北里集団が利用可能なまともな研究室とまともな培養施設が裏目に出る。ペスト菌は摂氏24度が最も活発化し、体温に近いほど死滅が早い。したがって、異なる菌(肺炎球菌)をペスト菌と同定する過ちを犯す。一方、イェルサンはまともな設備をあてがわれなかったため、通常の室温、つまり24度で培養させていたため、正しくペスト菌を培養できた。

その後も北里はイェルサンの成果を横取りしようとたくらむが、まともな環境がすべて裏目に出て失敗する。

としているうちに、パスツール研究所から論文が出て、勝負がつく。

・著者はフェアに、リンパ節と血管のどちらに着目するかは、単なる勘であり、北里が負けてイェルサンが勝ったのは、運の問題だとしている。が、その後の経緯からは、相当、北里の政治力は薄汚く見える。

そこで思い起こすのは、近年の野口英世に対する風当たりで、黄熱病の原因を見つけきれなかったのは運が悪かっただけだろうし、研究中に感染して死ぬのも運が悪かっただけなのに(イェルサンのパスツール研究所の同僚たちも次々と死んでいく。ペストを培養中のシャーレが実験動物が暴れたために引っくり返って感染したなんていう悲劇まである)、なにか無能もののように言われているのを目にすることが多い。かわいそうな野口英世。

ここでイェルサンはペスト菌の媒介としてネズミに目をつけるが、根本原因がノミであることを見つけるのはパスツール研究所のシモンとなる(シモンは感染したネズミと感染していないネズミを離れたカゴに入れておき、媒介者を探す方法でノミを特定する)。

その後、イェルサンはインドに派遣されるがここでも政治問題が勃発する。ここではイェルサンは強気に出まくり(香港ではほぼ一人で研究せざるを得なかったのだが、ここでは何人も利用する必要があったようだ)全員に嫌われてほぼ追い出されてしまう。本人的にはむしろ探検の続きができるのでOKだったようだが、パスツール研究所はその後多少苦労する。

30歳過ぎて探検にあきたイェルサンは今度は、東南アジアに向いた植生に興味を持つ。その一方で自動車にも興味を持ち、インドシナで最初の自動車をフランスから取り寄せて運転を始める。

すぐに、タイヤの重要性に気づき(その前にミシュランの自転車でもタイヤの重要性には気づいている)これからはゴムだ、と判断しゴムの栽培に取り掛かり(植生研究で論文を何本も書くが、研究だけではなく実際にゴム畑も作る)大金持ちになる(ゴム農園は、パスツール研究所の他のメンバー2人との共同経営なので、彼らも当然のように大金持ちになる)。

次に、コカの栽培に取り組み、砂糖を混ぜるととてもおいしく癖になる、黒い液体(コーラ・カネル)を発明するが、パスツール研究所の友人たちの評価を得られなかったので特許も取らずに捨ててしまう。

結局、キナノキに目をつけて、ストリキニーネをがんがん製造することでさらに莫大な富を得る。

最後、1940年代、ヴィシー政権がまだ制空権を握っている間に飛行機でパリからインドシナに脱出し、彼の地で死ぬ。

ペスト&コレラ(パトリック・ドゥヴィル)

と波乱万丈な生涯なのだが、小説としてはそれほどおもしろくなく、特に前半は読みすすめるのが苦痛だ。

まず、この人の記録は、研究ノートとおそらくまったく変わらない書き方の手紙から得ているのだろうが、要は研究ノートなので、感情の起伏がまったく見られないのだと想像できる。

したがって、他人の書いたものを利用しないと感情がわからない。

のだが、他人とあまり積極的に関わらないので使える資料に乏しい(本人自身による膨大な記録はあるのだが)。

そこで、伝記作家としては、同時代のできごとを組み合わせて一生懸命おもしろさを持続させようとするのだが、山田風太郎の伝奇小説と違って、伝記小説なのででたらめは書けないというか書かないようにしているのだろうから、まったく盛り上がらないことはなはだしい。

唯一公的に悪役を演じたのが明らかなのが香港の北里柴三郎軍団だけだが、しょぼい。

そこで(翻訳者が極端に走ったのではなければ)文章で抑揚をつけようと工夫した結果だと思うが、翻訳はやたらと体現止めを多用した一種の美文調で書かれている。ところが、これが、まったく内容と釣り合わないので読みにくさを倍増させてしまっている。

さらには、ほとんどの登場人物が母子家庭だという点に着目する(惜しい。日本側が北里ではなく野口だったらそれも利用できたのに)。そりゃ普仏戦争なまなましく感染症の撲滅がこれから(やっと細菌を見つけたというか、イェルサンがパスツール団に加わった時点では、自然生成説のほうがまだ主流派)の時代だ。ちなみにイェルサンは細菌学の先駆者の不幸なハンガリー人についての論文も書いている。

そこで父なし子連盟だの父なし子同盟とかの語が頻発するのだが、それが筋道の進行を妨げることおびただしい。出てくる人間ほぼ全員が父なし子なので、どうでも良くなってくるからだ(という状況を細菌学によって相当解消したのだからパスツール団は偉大なのだろうが、それにしてもしつこすぎる)。

著者にとっては難しい賭だったのだろうとは同情する。

さらには当時の風景を現在の状態との比較のためだと思うが、著者自身を作中に出してくるのだが、これがまったく蛇足(書いている情報はおもしろい)と化している。

というわけで、圧倒的な情報量で広がりはとんでもなくおもしろいのだが、小説としてはとても読みにくい奇妙な作品となっている。

とはいえおもしろかった。でも、セリーヌやランボーやブレーズ・サンドラール、あるいはベルダンの戦いやヴィシー政権の状態などを知らないとさっぱりわからなかったりするかも。(おれは、アフリカ探検団のあたりはリヴィングストン以外はほとんど知らないので、固有名詞の羅列から何も得られなかった。というか、固有名詞の羅列で感情を動かす手法って、まだ存在したのだな。さよなら僕の友達とか、日本ではなんとなくクリスタルとか)。あとユダヤ人問題について、ドイツ留学時代のユダヤ人の友人とからめて書いているが、何しろドレフュス事件よりも前の時代なのだった。

結局ほとんどの時間をイェルサンはインドシナのナトランというほとんど自分で切り開いたような地で、ベトナム人の助手とたまにやってくる奇特なヨーロッパ人だけの植物とワクチンと家畜などなどの研究所で好き勝手をやっていたという印象だけが残る。

ところでコレラは書名にはあるが、どこに出てきたのだろうか?

革命のふたつの夜 (角川文庫 緑 305-7)(筒井 康隆)

(ペストとコレラの2題話といえば中学の頃読んだ筒井康隆のコレラは忘れがたい)


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