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妻が図書館でおもしろそうだと借りてきた絵本を眺めたらイタロカルヴィーノの名前が目に入って(まあ入らなくても絵本だから読むのだが)読んだ。
おもしろかった。それも思わず笑いだすくらいに。
イタロカルヴィーノが採録したらしいが、ふと、バルトークやコダーイが民謡を採集して(コダーイはともかくとして)そこから自分の創作の語彙を豊かにしたようにイタロカルヴィーノも同じようなフィールドワークをしたのかな。文化的収奪(国家は同一でも階級間の収奪は当然成立する)という概念がない時代だったのかも知れない。
それはそれとして、物語は抜群におもしろい。絵本だから絵も良いのだが、それ以上に物語が抜群である。
王への年貢の梨がいつもは籠4個なのが3個半しか収穫できなかったため農夫は籠に自分の娘を入れて送り出すという無茶苦茶な設定で始まる。
紆余曲折あって、娘は王宮に居場所を見出すのだが、そこは昔話、王様が娘に関するフェイクニュースを信じ込んでしまい、娘は魔法の宝箱(それが何か、当然娘は知らない)を持ち帰るための旅に出る。
そのあとが実に調子が良い。
梨に愛されている娘だから(それは梨農家の父親のおかげなのだろう)、梨の妖精の婆さんがすべてをお膳立てしてくれる。
それにそって、難関をちょろく突破していく。
突破していくのだが、ここの仕掛けが実に気分が良い。娘(の背後の梨)の旅路は苦痛に満ちた人々の我慢に対する解放の旅路なのだ。
かくしてほぼクエスト達成かというところで、この娘自身も何も我慢しない性格だということが明らかになり、すべての成果が台無しか、という驚くべき展開をした瞬間に梨の婆さんによってすべてが解決する。
そしてなし崩しのハッピーエンドを迎える。
予想外の展開っぷりが実に痛快だ。
で、ふと、なぜおれは予想外と感じたのか考えてみる。
日本のほとんどの昔話と違うからだ。
桃太郎の旅路は、弁当の黍団子を子分を作るために分け合う(自分の食い扶持が減る)という我慢の旅路である。
舌切り雀の爺さんの旅路は、馬洗いどんから馬の洗い水、牛洗いどんからは牛の洗い水を桶7杯呑み干す我慢の旅路である。
浦島太郎の旅路は故郷喪失の旅路である(亀を解放してやっているが、子供たちには我慢を強いている。梨の子の旅路はすべて誰も我慢する必要がない仕組みだ)。
小僧が山姥から逃げ出す旅路では、百足やゲジゲジが這いまわる山姥の髪を梳かなければならず、牛飼いが山姥から逃げるときは空腹に耐えかねて萱のストローで鍋の汁をすすったりだ。
天女は好きでもない男から羽衣を取り返すまでは専業主婦に身をやつす。
鶴は恩返しのために自分の羽根をむしるしかない(夫のほうは我慢せずに覗いてしまうの我慢の非対称性が問題となり離婚となる)。
最初から最後まで調子よく旅路を進むのはわらしべ長者ただ一人ではなかろうか。
もちろん、梨の子が、わらしべ長者と同じく例外という可能性はある。
が、何しろキリストすらエボリで引き返してしまったのだから(と、南イタリアの昔話ではないかと想像しているのだが)、せめて物語の中ではすべての登場人物を解放する方向で物語られているように感じて、それがまたおもしろかった。
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