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豊洲で犬王。なんかやたらと周りで評判が良いので観てみるかと思った。時代劇好きだし。
という程度の知識で観に行ったら、とんでもない(良い意味で)作品だった。物語はシンプルなのに、すさまじく重層的なテーマで一度観ただけではもったいないのでもう一度行こうと思っているうちに時間がたってしまった。
現代の都市の一角から物語は始まり、すぐに壇ノ浦に二位の尼と安徳天皇もろとも天叢雲剣が沈んだのを(この作品では天叢雲剣を納めた櫃に尼と天皇をくくりつけたことになっている)手に入れたい足利将軍の意向により壇ノ浦に武士が派遣される背景の説明となる。
壇ノ浦では素潜り少年(友魚)が父母と暮らしている。父親はこのあたりの漁師の統領らしく派遣された武士が談判している。少年は思い当る節があるので父親に合図をし報酬を受けさせる。
漕ぎだした舟から潜った少年は見事櫃を引っ張り出し天叢雲剣を手に入れる。父親が抜くとまるでレーザー光線のように刀身からの光があたりを薙ぎ倒し、父親は両断、少年は目を持って行かれる。
一体何の話だ? と不思議に思いながら(演芸の話というのは知っていた)観ていると、少年は旅に出て(父親の亡霊がついて回る)厳島神社で琵琶法師の謡う平家物語に惹かれるままに弟子入りする。やっと芸事の話になったと思いながら観ているうちに旅は続いて友魚はいっぱしの琵琶法師(法師ではないように見えるが)となり師匠と入京する。
一方、とここできっかいな姿の踊りを踊る妖怪が犬と共に登場(犬を連れて登場する見るからに一方の主役なのでこいつが犬王だなと見当がつくし事実そうだった)。はて? と観ていると足が生えてきたりする。父親の舞踏家が目玉ぐるぐるの謎の面と契約して日本一の舞踏家となることと引き換えに体を与えたことが語られる。百鬼丸みたいだな。被った面の片方の目と口の部分から目が見えるので生の顔がとてつもなく歪んでいることが示される。彼が面を脱ぐと見た人間はことごとく肝をつぶす。それを楽しみながら京の町をすごい勢いで駆け抜ける。
京の町を友魚が歩くシーンでは、鍛冶の音、(具体的なものは忘れた)などの町の音が映画館に素晴らしい音響で次々と再現される。ここがまずとんでもなく凄かった。
橋の上で二人が出会う。例によって犬王は面を取るのだが友魚はまったく動じない。目が見えないからだ。かくして二人は魂で共鳴しあい友人となる。
友魚は犬王が多数の魂を連れていることに気づく。平家の亡霊らしい。一方友魚自身が連れている父親の亡霊は影が薄くなりついには消えてしまう(友魚は琵琶法師のギルドに参加したため友一と名前を改める)。
犬王は亡霊の言葉を聴くことを教えられ、未だ語られぬ平家の物語を知る。
友一はロックバンドを組み(ベースは異様にでっかな琵琶)橋の上で犬王の公演の宣伝を行い、犬王は大がかりな仕掛けを使ったパフォーマンスを繰り広げる。(でっかな鯨は覚えているが、仕掛けは縄で結んだり、からくりを人力で回していたりで、それっぽくリアリティを作って描写していておもしろい)
噂は足利義満(世阿弥(まだ藤若)の後援者として描かれる)に届き犬王のパフォーマンスを金閣で行うこととなる。犬王は友魚(今では自分の一座を持ち友有と名乗る)をバックバンドとして指名する。日野業子(だと思うのだが)はまた龍が観られると期待する(その前に観た龍とはなんだろう?)。
実に美しい水上のパフォーマンスなどを経て3曲目のスローバーラードの途中で龍が渡り廊下を駆け抜ける。ここの映像はすごく美しい。最後、犬王が自分の代わりに日本一の舞踏家の地位につくことを恐れた父親、平家の亡霊たちなどが入り乱れて止揚される。犬王は人間に戻る。
足利義満たちは公式の平家物語以外を謡うことを禁止する。犬王は琵琶法師とのコラボレーションを禁止されるがためらいも見せずに受け入れる。一方、友有は断固として拒否しバンドメンバーは切り殺され、本人も拷問され(いざり車で移動することになる)さらには河原で首を斬られて果てる。
現代に戻り、犬王と友魚は邂逅し成仏する。
亡霊が消えること(何かの影響からの離脱)と自己の芸術の完成がテーマの一つなのは明らかだし、そこは観ていてまったく違和感はない。そのため、自己の芸術を手にした友有はそれを手放すことを拒否して死後も漂うことになる。一方、亡霊が消えると共に語るべき物語を失ってしまった(が人間となった)犬王は王に庇護された芸術家としてルーチンで生きるしかない。したがって友有と袂を分かつことに問題はなく、世阿弥と異なり何かを後世に残すこともない。それと友情は別の話だから最後に懐かしく出会える。
町の音が音楽へ昇華されることもテーマなのは京の町の美しい音響芸術から明白だ。
大衆を巻き込む芸能(拍手や掛け声や合唱をパフォーマーがオーディエンスに求める)に初めて出会った人々の反応というのもテーマだろう。
観ていて、そして観終わって実に気分が良いのは、悲惨な死を遂げる(そもそも目は斬られるし、父親は殺されるしで、あまりハッピーではない)友魚にしろ、体を無茶苦茶にされて父親からまともに相手にされてもいない犬王にしろ、パフォーマンスによって充実して生きていることが明らかに示されているから、観ていて悲劇的な物語には感じないからだろう。そこは映画として実に見事だと思う。なんにしてもおもしろかったのだ。
追記)友魚は耳の人だから、現代に至るまでずっと都市音楽を聴いて過ごしてきていたのだなと考えてみると、犬王が面の下から目をぎょろぎょろさせているのは必ずしも歪んだ顔を示しているだけではなく眼の人であることを示しているのだろう。そういえば父親たちの舞踏を見て真似をしたりと、この人は徹頭徹尾眼を使っている人なのだった。したがって、人間を取り戻すための最後の舞台に耳の人の音楽と眼の人の舞踏が組み合わされるのは必然だったのだ。
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