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荒船風穴を観に行ったときに展示看板か地図か忘れたが「戦争」に関する記載があって、いくらアメリカでも群馬の山の中に攻撃には来ないだろうから面妖な、と思った。というのがまず頭にある。
というのは関係なく、風穴に着いたのが遅過ぎて歴史館へ寄れなかったので、行き直した。世界遺産10年記念のブレチンというのを手に入れたかったからだ。
最初に妻が昼食を取ろうと調べた日昇軒という洋食屋に寄った。店の前にバイカーがたむろしていて、一体どういう店なんだ? と思ったが、確かに店内が広いのでグループでも余裕で入れるからだな。で、下仁田スタイルのカツを食べれば良かったと後で気づいたが、なんとなく神津牧場(風穴の帰りに行きと異なる道を通ったら通り抜けることになったので興味津々)の乳を使ったというポップに惹かれてクリームコロッケを注文した(美味しかったのでOKだが、クリームコロッケはクリームコロッケだ)。
食べ終わって鏑川のほうに進んで比較的広い道に突き当たったので右に曲がってしばらくすると、水戸藩士野村某の墓というのが出てきた。なぜ、下仁田に水戸藩士? と不思議に思った瞬間にすべてが氷解した。
天狗党が来たからだ。
『魔群の通過』は大傑作。というか、八犬傳に続いてよもやの山田風太郎レトロスペクティブになるとは考えもしなかった。
するってえと先日見かけた「戦争」というのは……
と考えていると、歴史館に着いた。想像していたのはせいぜい2階建ての長方形の建屋だったのだが、全然違う。丘の上に正方形のやたらとデザイン性が高いきれいなブロックだ。
なんか上のほうが大きくなっていて科特隊の建物みたいだ。
で、入り口に天狗党と高崎藩の戦争についての張り紙があって得心した。
歴史館の人がナチュラルに「戦争のとき」と条件無しで「戦争」という語を使うので、以前島田紳助のギャグで「京都の婆さんが『戦争のときに裏山で~』と言うので、京都に空襲はなかったはずだがなんでやねんと思ったら戊辰戦争」というのがあったが、同じノリだな。東京だと大空襲でがんがん殺されたから単に戦争というと太平洋戦争末期の米軍の一方的攻撃を意味するわけだが、妙なところに郷土色というのは表れるものだ。
歴史館には春秋館(風穴の管理会社)の各種資料が展示されていて、まだ清だったころ(辛亥革命前のはず)に北京の日本商社からの受注票(か顧客管理帳)が展示されていたりして興味津々清だけに。2階は生活具などが展示されているが、どうも下仁田は江戸時代から豊かだったように見える。江戸時代は下仁田葱と蒟蒻(?)でどちらも付加価値がある農産物だし、明治になってからは養蚕が富をもたらしたのだろう。そういえば高橋道斎のようなインテリが世に出られるのも豊かさあってのものだった。
歴史館の窓から臨む戦場跡(窓枠に説明がある)に今ではガスタンクが聳えている。
それにしても下仁田戦争は下仁田村にとっては衝撃的大事件だったようだ。戦死した高崎藩士の一覧が展示されていて、中に一人坊主頭がいるのでなんだろう? と思ったら軍医(当時だから典医は坊主なのだろう)で、天狗党情け容赦ないなぁと思った。が、それにしてもやたらと殺されている。一方、天狗党は3人と少ない。
どちらも大道としては幕府側(天狗党が大長征したのも慶喜と直談判するためなので本人たちは倒幕のような考えは一切持っていない)なのに、こんな内乱をしているから薩長に突け入れられるのだと残念感がある。
帰りに外に出ると、勝海舟が揮毫した高崎藩士の慰霊碑への下り道(というか階段というか)があるので、降りてみた。なかなか難儀な道だが天狗党の長征に比べれば屁ですらないなぁ。慰霊碑はなかなか立派なものだが、戦死した高崎藩士も下人(3人くらい殺されている)や典医はともかく武士ならば戦で死ぬのは覚悟の上の職業とはいえ、まさか徳川側同士で殺し合いをすることになるとは考えもしなかっただろうな、と感慨深い。
帰りは外から春秋館を眺めるかと、写真から港区の伝統文化交流館になる前の見番のような木造建物を想像して対面通行なのに1台分の道幅しかない生活道路をうねうね上っていくと、これも世界遺産の一部なのか修理ができない状態で覆いを被せてあって、これは写真で見るだけで満足しておくものだったのだなと残念なようなそれはそれで興味深くもあった。
それにしても下仁田戦争について知ることになるとは当初予想もしていなかっただけに実におもしろかった。
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