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新国立劇場で蝶々夫人。
今回、下手3階席で観たのだが、これまで気づかなかった家の仕掛けに初めて気づいて(あるいはスルーしていただけかも)演出の妙に唸らされた。
家の上手の角に柱がにょきっと立っていて、屋根をつけないことと後ろの襖の組み合わせで日本家屋らしさを抽象的に表現しているのだと考えていたのだがそうではなかった。
2幕でピンカートンをあきらめるように膝を折って座っているスズキに対して佇立して否定する蝶々夫人を、下手からライトを当てることで、上手に柱をはさんで影絵芝居となるように仕組まれていたのだった。それで位置がきちんと合うように、蝶々夫人が立つ位置に落ち花がこんもりと積まれていたのか。
結果として柱が壁となり、影絵の世界では現実世界に戻るように懇願するスズキと、壁のあちら側でそれを完全に拒否する蝶々夫人という構図が現れる。
この影絵芝居があることで、ピンカートンを待ちながらスズキと太郎が寝てしまったあとに、蝶々夫人が一人下手から上へと続く道を上るシーンの意味が浮かび上がってくる。いつまで待ってもやって来ないピンカートンを迎えに丘に登り、いつも見えている星条旗が、こちら側にないし、彼女の側には永遠に来ないことを見る。
したがって翌朝からの一連の物語は彼女にとっては自明のこととなる。
彼女が死ぬと奥まで続く直線の上に太郎が立つのは、したがって、彼女は太郎とともに、直線的に合衆国への道をようやく歩めるという意味となる。
ボンズが妻屋で言葉本来の意味での役不足なのはともかくとして、歌手は全員とても良い。特にシャープレスのタッディアという人が実に軽妙で心優しく日本の風習にも本国の風習にも苦々しく感じている複雑な役回りを見事に演じていて感心した。所作が実に良い。同じくちょい役とは言え山鳥の吉川の鷹揚さも実に気持ち良い。
指揮のマッツォーラはメリハリが抜群で、序曲のフーガ(考えてみたら、これは蝶々夫人とピンカートン、日本と合衆国の、追っかけと追っつかなさ、噛み合わなさと表現するために、それまであまり対位法的な曲を作っていないプッチーニの渾身の曲だな)の迫力、迫力といえば金管の盛大な鳴らさせ方、打楽器の強調、その一方で異様に甘美に歌わせる弦と、おそらくオーケストラは演奏していて実に楽しかったのではなかろうか。
ただ、メリハリがつきすぎて、さすがに1幕後半の蝶々夫人とピンカートンの愛の場面は美しさ以上に遅すぎてうんざりした。指揮者陶酔し過ぎだろう、で、芸術監督の趣味に合っているのか、とも思った。
逆に、新国立劇場の合唱団の美しさと指揮者の歌わせかたと小林の歌声がばっちり噛み合って、蝶々夫人登場の場は実に甘美で憧憬と陶酔の塊のようで聴いていて実に気持ち良かった。
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