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カールでカイゼル(読みはでたらめ)のフラッシュだけで構成されたサイトなんだが、ZONAというシベリアの収容所の写真集(BOOKSとEXHIBITIONSの両セクションにある)がとんでもなくすごい(実は、他のまで見ていないからもっとすごいのがあるかも)。たとえば食堂で飯食っている連中がすさまじいガンヅケしてる写真があるんだが、怖いぞ、とか。
これもLeftさんのところ経由。昨日はどうも、楽しかったです。
ロシア、目つきというと、ゲルマンの我が友イアンラプーシンはたまたま試写会で見たのだが、日本海映画の人が、この映画を買い付けた1番の理由は途中の列車のシーンの兵士の目つきがすごかったからだ、とか言っていたのを思い出す。
DVDにはなってないのか。
ちょっと間違えていて、主人公達は中学生。途中で出てくるヤクザとその一派だけが本省人で、ほとんどは外省人。60年代初頭または50年代末期が舞台。裸電球。
主人公のスーの家は公務員で、同級生か隣のクラスだかのミンの家は兵隊、同級生のマーの家は高級官僚(というか司令官)。職業が違うと住む地域も違うし、生活も違うし、仲間も違う。しかし、公立の中学校は同じ。この呉越同舟ぶりが、そのまま世界となる。その他に、歌がむちゃくちゃうまいサルミネオみたいな役回り(あれ? なんて題名か忘れたぞ。プラネタリウムのシーンがとてもきれいなニコラスレイの映画)の小僧とか、トルストイの戦争と平和を少しずつ読んでいるハニーと呼ばれる熊のような不良青年(兵士の子弟の親分格)とか。
4時間と長いのには理由があって、些細な細部を描くことで文脈を徹底的に明らかにしていくからだ。
たとえば、サルミネオがラブミーテンダー(違うかも)を唄いたいのだが、そこはあんまりまじめに勉強していないから英語がわからない。そこで、スーの姉さんに頼んで聞き取ってもらって紙に書いてもらうシーン。何度も針をレコードに落としなおしては言葉を拾っていく。酔っ払った隣の家の親父が自転車ごとドブに落っこちたのをスーが助けるところ。この親父はスーの家を毛嫌いしているのだが、ここにX省人をからめているのかも知れないがわからない。サルミネオがプレスリーを唄おうとすると、敵対グループから投げつけられる「コニーフランシスでも唄ってろ」とか。
話は大きく、スーの家、通学路、学校の往復で成り立つ。その間にはさまる集団闘争。
実はミンはハニーの恋人なのだが、ハニーはコンサートの利権争いに巻き込まれ殺されてしまい、結局、生活のために母とともにマーの家に住み込むことになる。
下層と上層は自由(あるいは不自由であっても)、放縦に振舞える/振舞わざるを得ないのだが、中層は、そういうことは関わりなく暮らしているので、自分が本当にただのノンキな少年に過ぎないということを知ってしまう。
という中学生日記のような世界と並列して、スーの親父が国民党の恐怖政治の(ときどきスパイをでっちあげて見せしめることで、恐怖政治を維持するってのがあるわけで)餌食になってしまうのだが、これが2重構造となっている。また、公演でスーや友人たちがサルミネオコンサートを開いてちょっとしたパーティ券で儲けようとする(記憶は不確かだな)行動と、ハニーが殺される原因となるコンサート会場を借りて実際に札束が飛ぶ兵士グループの行動の対称とか(この構造は記憶違いかも)。
スーの世界と、ほとんど言葉の端でしか示されないミンの世界、そして最後のほうになってそれまで示されることがなかったマーの世界(スーがミンのことを好きなことを気付いているし、しかしそれなりに親友のつもりでもあり、ミンよりはスーのほうが自分に社会的立場が近いわけだし、自分の社会的な地位の絶対的な優位性について思うところもあったりして、実際にはマーが非常に複雑なのはマーの語られ方で示されているのだが、実際に中学生なんだからしょうがないが厨坊っぽく「今度、貸してやろうか、おいしいぜ」というような言い方をしてしまうような覚えがあるのだが)が明らかになり、題名にしたがって(というよりも、実話を下敷きにしているそうだから、ラストは誰でもわかっているのだ)スーはミンを刺し殺す。なぜマーを殺すんじゃなくミンを殺すんだ、と最初見たときは思ったが、やはり死ぬのはミンでなければならないのだな、と今は思う。
獄中にサルミネオからテープが届く。看守に握らせたから聴けると思うよ。そしてサルミネオ版プレスリーが流れておしまい。
監督エドワードヤン。
最初3時間版を見て、すぐに公開されたので4時間版も見た。本当に好きな映画のひとつだ。
この監督が圧倒的なのは、時間軸は素直に取っているのに、その上で多層構造で個々の人間とその人間の世界をきちんと書くことだ。
マルチスレッドでセキュリティコンテキスト、トランザクション境界、処理ドメインが異なる複数のオブジェクトを同一プロセス内できちんとインタラクトさせながら動かし、かつその論理構造が明解で、かつ実行時に破綻がなく、かつソースコードが明晰であることの困難さは誰でもわかる。そしてそれを平然とこなせるのだから、すばらしい。
右のカップルズは、リアルタイムな台北を舞台に4人のちんぴらと、そこに紛れ込んだ1人の外人の女の子(まるで御厨里美の漫画を思い出す)を巡る冒険の物語。退屈な日常を退屈でなく過ごすために空回りするつまらなさ。これも良かったが、しかし、短いかも。また、ホンコーンと呼ばれる小僧の書き方があまりにも滑稽過ぎてちょっと気分が悪くもなる。
言われて鮮やかに思い出す押入の中の懐中電灯、夜の学校(?やっぱ鮮やかじゃないじゃん)での懐中電灯、まるで武士の大小のように、身につけていなければならないものの如く、孫悟空の如意棒のごとく、常にスーと共にある銀色の懐中電灯は忘れていた。
それに、全然、記憶から欠落していたが、「私はこの世界と同じよ」と言われたのだった。世界から追放されたら、口元に笑みをたたえて背を向けて歩き出すか、さもなければ世界を変えるかだ。そして世界を変えるためにナイフを突き出したんだったんだな。
モノへの偏愛っていうのも、思い出した。カップルズでの携帯電話なんか、完全に、異常なほど、携帯電話、携帯電話。まあ、ディスコミューニケーショナルなコミュニケーションツールというとてもわかりやすいツールだから特徴とは感じなかったのかも知れないが、言われてみれば、そのような機器への偏愛があるのは間違いなかろう。
ジェズイットを見習え |
昨日はどうもでした。カップルズは劇場で見ました。対象に対して、いいとも悪いとも言わないある種の客観性を感じましたが、やりたいことはわかるけれど確かにちょっと短い、という感じでしたね。