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ぼつりぼつりと晩飯食べるときに読み進めている。
最初は、覚悟していた以上になんじゃこりゃだった。
それほど興味と動機がなければ、東洋かぶれの似非タオイストとして捨ててしまうところだ。というのも小川環樹でなんども読み返してるから別に老子の教えを知りたいわけじゃない。
(それに、老子より荘子と韓非子のほうが好きだ)
書き方も同じような感じ。
まずテーゼ。次にそのテーゼを導くにいたった考察。
しかし、荘子や韓非子がテーゼと考察がきわめてスムーズにつながり整合性があり、しかもそれが複数の事例で示されることによるパターン性があることから生じる説得力を持つのに対して、老子はいささかもやもやしている(というか、テーゼしか無い)。それ以上にアレグザンダーのは感覚的だ(でも、経世の書ではなく、まさに感覚の世界=究極的には居心地の良さが追求されているのだから、それはしょうがないのだが)。
つまり無名の質ってのは、不変の質の言い換えであり、道だということだろ、おっさん。
道のいう可きは、常の道に非ず。名の名づく可きは、常の名に非ず。名無きは、天地の始めにして、名有るは、万物の母なり。――老子
母はしょせん産み出すものであり、本質=そこに確かに最初からあるものは、無名のものである、と。
というわけで、テーゼに対応する太字のところだけ拾い読みをしてたのだが、突然、視界が晴れるようなところに行き当たった。
それはパターンは要素ではなく、要素の組み合わせ=構造だとした箇所だ。すごく納得した。パターンには名前がついている。たとえばデザインパターンだとシングルトンとかだ。名前がついているからそれは要素に見えなくもない。しかし実際にはそれは構造を示す。あたりまえだけど、なんとなく見失っていたようだ。
斉藤さんのところから引っ張ってきた1枚。
思い起こしてみれば、アズテクキャメラとかスミスとかあのあたりから音楽を聴かなくなってきたのだった。だからこれが大ヒットを飛ばしたとか書いてあるライナー読んでてもまったくピンと来ない。
理由はわかっていて、あの連中の音色の単純さに耐えられなかったからだ(僕の音楽の源流は後期ロマン派から新ウィーン学派+20世紀前半の東欧にあるわけだし)。
ビートもなければ、複雑な組み合わせもなく、ノイズもない。確かヤングマーブルジャイアントあたりはそれでも聴けてたような気もするが。
いずれにしても、80年代の後半はイアンカーティスを弔うためか、癒し=反動時代に入ったらしい。U2みたいなハードロックみたいな音楽か、さもなきゃアコースティックだ(ニューアカにかけてるんだろうが、ニューアコとか言ってたよな)。それはあたかも、60年代後期のサイケの多様性を、70年代になってカーペンターズが根こそぎ刈り取ってしまったみたいなもんだ(音楽が悪魔の産物だということは、カーペンターズの内情が見えてきた現在にあってもなお、やはりカーペンターズの音楽が魂を腑抜けにさせるほど美しいことからわかる。大嫌いだ)。20年周期かい?
でも、ぼーとしながら聴くには、こういうのっていいね、という話。
暑いし。
サタデーナイトライブで、エディマーフィーが「魂を売り渡した黒人」というコントをやっていた。
ナレーションが入る。「かってブラックミュージックといえば、ソウル、ソウル、ソウルでしたが、今のヤングは、その重要なソウルをやつらに売り渡してしまったのです。では、稀代のソウルセラーを紹介しましょう」
エディマーフィーがふにゃふにゃくねくね出てくる。
ピアノに向かい、体をくねらせながら、柔らかい素敵な声を出してカーペンターズを歌う(バカラックが作曲したやつだったかな)。
ライオネルリッチー。
Ahead of Time Dynamic Translation
JITとAOTって対語として捕らえて良いの? それともまったく関係なし?(ってこたないか。同じ分野の用語だけど対で考えることではない……というか、AOTだからといってJITが不要になるわけじゃないからやっぱり対語ではない。かな)
すると、3年後の自分達チームのためには、ドキュメントは書かなきゃならないってことになると思う。今、ここでは不要であったとしても。
#まあ、ドキュメントったっていろんな種類があるから必ずしもそうは言えないか。
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