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観て来た。えらく感動した。
何に感動したのかと言えば、その演出にだ。全然別の世界がその枠組みの中で構築されている。
プティパの呪いから完全に解き放たれているってこと。
時計修理のドロッセルマイヤー(王宮の魔法使いってこた、陰陽師みたいなもんか――追記:どうも執事らしい。ってことはヽ大法師の役回りか)がやって来て、時計の針が逆転すると、雪の通りがあっというまにクリスマスパーティの会場になり、最後はベッドから外が開いて元の世界が始まる。
唐十郎の紅テントの、最後でばっとテントが跳ね上がって花園神社の向こうが見える演出を思い出したりもしたが、舞台の空間と時間と現実の空間と時間の往復を何十年ぶりかで意識した。その刺激が強烈だった。
最初の街角にあるガラスでできた建物の照明がメリーゴーラウンドのようで、妙にわくわくしてくるし、なんか、とてつもなく素敵なものを観たという気分を味わえた。
踊りは、1幕の中ごろで、クララをドロッセルマイヤーとなんだか忘れた人がキャッチボールのように宙を飛ばせるところが印象的だったな。トレパークのダイナミックなところとか、きのこの踊りという呼び方だった気がするけど中国の踊りの千手観音みたいなおもしろい振り付けとか。あとカーテンコールのネズミの尻尾とか、玉座のネズミたちとか。通りの子供たちの跳馬の踊りの楽しさ。でも、バレエというよりは演劇を観たような気になるのは、舞台装置と演出のせいだろう。それが一番見事だったということだ。
で、終わった後、向いの美術館でムンクを見る。
晩年の作品をまったく知らなかっただけに、労働者の群像に見とれる。あるいは衝撃を受ける。良く知ったムンクの不安定で崩落が始まっていて、世界樹が枯れて溶け始めた世界とはうってかわって、確信に満ちた力強い世界がそこにある。なんとしっかりと大地を踏みしめていることか。ところが、制作年ときたら1914年だ。
もう不安は的中して、世界の枠組みが変わって、あれほど美しかったヨーロッパが自壊する。
だから、何も絵画でそれを表現する必要はすでに無いのかも。あるいは単に、それが老境というものかも知れないけど。
あるいは、帯としての絵画とか、神殿としての絵画とか。個々の不安に満ちた作品を部屋のまんなかから見渡せば、細部は空間に溶け込むために、単に美しい色彩の帯となる。全然、印象が異なることになる。その中に、中期の白が目立つ橋の上の群像が穴のようになっていて、いったいこの人はどこへ行くのだろうと不思議になる。しかし近づけば、色彩の明るさに反して、あいかわらず世界は溶け始めている。
美の20世紀〈6〉ムンク (美の20世紀 6)(エリザベス イングレス)
で、さらに医者の子供部屋のための作品群を見る。なんでこの美しい緑を拒否したのかなぁとか思いながらも、画家の悪意も感じざるを得ない。なぜ、やめろと言われているにもかかわらず抱擁像を何個も配置したのだろうか。妙に丸まってしまっているので、わからないとでも思ったんだろうか。でも、その融合ぶりがむしろ妖しさを感じさせているのだが。
なんどもなんども同じ画を描いていることに興味をひかれる。描くたびに微妙に構図が変わるのは理解できるが、描かれている細部が変わるのが興味深い。たとえば小船があったりなかったり。しかし一環して月の光の縦の帯はある。
太陽の習作の縦の帯。
縦の帯は、ほとんどの画に共通している。アダムとイブの真ん中の木の帯は地下の骨から栄養を吸い取り天井の都市へと供給する。
立像の縦の帯。
それに対して部屋を横の帯状に画が取り巻くという空間設計。
すると、縦の帯は柱の役割を持つのかなぁとかいろいろ考える。
労働シリーズでの馬は横たわっているように見える。労働者の屹立する群像とは対照的だ。
届いていますが、少なくとも評せる程度に読んでから報告したいと思います。
「それ、違法だし。なんで正規版買わないの?」
「だって、あれ、最初にスキップできない変な青い画面で待たされるじゃん」
「ああ、確かに。誰に向かって言ってるんだ? っていうやつが出てくるな」
「うん。あれバカだと思うだろ?」
「確かに、バカだな」
「つまり、正直ものはバカを見る」
まったくだ。
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