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抽象的なことはおいておいて、この本から何か所か興味深いエピソードを抜き出してみよう。
たとえば、".exe"とか".txt"とかがファイルに付いていて、しかもそれを「拡張子」とか呼ぶと、Unixプロパーなハッカーが、「ははん」と鼻にかけた音を出して、「拡張子? 何それ?」とか言う。
「拡張子ですか、これはなかなか奥が深くてですね、」と前置きしてからおもむろに本書のP.248を開いて、次の個所を朗読することになる。
ユーザーは端末で、簡単にデータブロックを作成し、修正し、保存し、呼び出すことができた。そして、データブロックを指す言葉として、すでによく知られていた「ファイル」という用語がつかわれた。ファイルは、1〜6文字で校正されたファイル名のあとに、ドット、そして3文字の拡張子がつづいた(たとえば、BASICで書かれたプログラムの典型的ファイル名は、xxxxxx.BASである)。端末でDIRとタイプすれば、ユーザーはディスクにあるすべてのファイルのディレクトリを表示することができた。また、LPTはライン・プリンタ……(後略)
「おいおい、DOSの話になんか興味はないね。それはゲイツだ」と相手は冷笑的な雰囲気を崩さない。
「え、DOSのファイル名は1〜8文字ですよ」とこちらはにこやかに答えることにしよう。
そして、おもむろに147ページに戻って、最初のところから朗読を再開する。
MITの支援を得て、DECは1972年初頭「TOPS-10」と呼ばれるシステムを開発した。
そして、さきほどは無視した言葉尻をとらえてP.149ページを指さす。「ゲイツというのは、ここに書かれていることですね」
こうした企業(引用者注:タイムシェアリングを利用してコンピュータの実行を切り売りする企業)のなかで特筆すべきなのは、1968年にシアトルで初めてPDP-10を設置したコンピューター・センター・コーポレーションやC−キューブド(☆1)である。これらの企業は、コンピューター利用時間を売るサービスが開始されると、地元の十代の若者だったビル・ゲイツに、システムのバグを見つけ削除する作業と引換えにコンピューターを自由に使える時間を提供した。C−キューブドの事業は1970年に閉じられたものの、ゲイツに双方向で利用できる対話型コンピューティングの可能性を認識させることになった(★19)。
☆1(引用者注)id:matarilloによれば「Cキューブドことコンピュータ・センター・コーポレーション」の誤訳。CCCということか。
「おや、ここに19という注がある(と言いながら、膨大な原注のページからP.439の該当箇所を探して)。このエピソードは1995年に三田出版会から翻訳された「帝王の誕生」という本の中で語られているようですね」
「ふむ」と相手は少し鼻白む。しかし、すぐに「TOPって、東芝オペレーティングなんちゃらとかじゃないのか」と無理筋を通そうとする。
「いえ、この本によると」
TOPS-10のおかげで、PDP-10を操作することは楽しみを通り越し、病みつきになった。ブランドが見た宇宙戦争ゲームをしていたコンピューターと、コンピューター・ゲームのなかでもっとも息の長かったアドベンチャー・ゲームが書かれたコンピューターがともにPDP-10(☆1)だったのは偶然の出来事ではなかったのだ。
☆1(引用者注):スティーブラッセルのスペースウォーはPDP-1(アラン・ケイによる1962年の出来事)なので、おそらく、それを別の誰かがPDP-10に移植したバージョンのことだと思う。ブランドとは、ステュアート・ブランドのこと。パーソナルコンピューティング革命のビジョンを持った理由のひとつがPDP-10ハッカーを目撃したことにおく。
「なんだって? その宇宙戦争ゲームというのは、もしかして、最初のLisp実装者が作ったあれのことかい」と、こないだファンクションクラブで教わったばかりの知識をひけらかしながら、食いついてくるのであった。
とはいうものの、この本は、主にハードウェアとマーケット(経済)動向を中心に歴史が回るため、スティーブ・ラッセルの名前は出てこない。マッカーシーはタイムシェアリングの伝道師としてだけ出てくる。LispのL、ラムダのLは出てこない。
出てこないものには、パラメトロンもある。
漢字の名前では唯一「嶋」という名字がどうもいやいやっぽくあっさりと出てくるだけだ、コフコフ。
計算機市場はマーケティングに長けただけのシャープとカシオのせいでつぶされたかのような書き方もされている。(この文脈でワングが出てくるとはね)
でも、それは何を拾い何を捨てるかの選択の問題で、この本の描く歴史では、それで良いのだと思う。
拾っているものの代表が、計算機だ。
僕は、あいにく、ドスモバだのHPのなんちゃらだのにはまったく興味を持ってこなかったので、レヴィーのハッカーズ史観(とか言い出したり)に違和感はないのだが、セルージは異議を唱える。
プログラム可能な小型計算機の登場が、いくつかの面でコンピューター技術の方向性を左右することになった。(略)これも重要な点だが、第二に(引用者注:第一はチップの集積度が上がったこと)、小型計算機、なかでもプログラム可能なポケット電卓が、個人のもつ想像力やエネルギーを解き放ったことが指摘できる。(略)だから、電卓ユーザーの5〜10%は、一般にハッカーを指すときに言われる「しわくちゃの服を着て、顔も洗わず髭もそらないボサボサ頭の人たち」ではなかった。しかし、彼らのプログラミングにたいする情熱は、鉄道模型クラブの学生らに負けず劣らず大きかった。
つまり、と面倒になって、一番重要なことを言うことになる。
コンピューターの魅力とは、プログラミングできることだ。
少なくともセルージはそれをわかっている。
モダン・コンピューティングの歴史(ポール E.セルージ)非難の矛先は、*がけっして先駆者になろうとせず、つねに別の中小企業が技術的なリスクを負うのを見届けてから、堂々と市場に分け入り、いかがわしい販売慣行によって、その座を奪い取ってしまうことに向けられた。*は、少なくともここまで読んで、*に当てはまる企業名を答えよ。ヒントは続きにある。
エッカートとモークリーに比べて、電子式コンピューターの未来に気づくのが遅れた。また、*701はユニバックに比べて入出力装置の設計で劣ると見られていた。(略)(前掲書P.92〜93)
より厳密に言えば、*は技術革新の遅れを、より優れた社内の製造技術と現場のサービス力によってカバーしてきたのだ。こうした努力は販売面に顕著に現われ、いつも攻撃的であり、競争相手は不当だと感じることが多かった。しかし、実際は技術力と販売力のあいだに明確な線引きができるわけではなかった。次の二つの例から、*の強みが、販売、製造、技術革新が一体化したものだとわかるだろう。
アンドリューセンとクラークに比べて、インターネットの未来に気づくのが遅れたとは続かないのであった。
追記:違う、全然違う。読んだとき脳裏にジャジャジャーンと出ていたのはMはMでも松下だ。「優れた社内の製造技術と現場のサービス力」
そういえば、電卓と言えば(上では興味ないとか書いてたが)、こんなの持ってたなとか思い出して、電源入れたらもちろん動かないのだが、なぜかACアダプタが見つかったので動かしてみたり。
なんとも微妙な存在だなぁ。
追記:違う。全然違う。powじゃなくてfacじゃん。
大島さんがまとめてくださったアラン・ケイの講演の抄録がおもしろい。40th Anniversary of Dynabook
(商業的な影響力がないとセルージの本には出てき難い)
でも、おそらく重要な点は同じなのではないか。
IBMやBUNCHはコンピュータを機械(道具=持つもの)として考えていた。
しかしDEC+MITあたりに源流を持つところでは、コンピュータを何か人間に取って魅力があるデバイス(延長=接続されるもの)として考えて、かつ熱中した人間がいて、それが1980年代後半からの流れにつながる。
その発見、つまりコンピュータの魅力というものは、現在ではちょっと様相が変わってきていて、自分が向き合う1台以上に接続されている無数の人たちとサービスというのになっている。
とかなんとか、ちょっと考えてみたりしたり。
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なんだか「電子立国日本の自叙伝」を見ていたときのような面白さがむくむくとわいてきますね。「わが青春の4004」も復刻してくれないかなあ。
僕も持ってました > AI-1000<br>確かスーパーファミコン買いに行って売り切れだったので,カッとなって買ったのでした。
そりゃ、スーパーファミコンのほうがいいですねぇ。