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新丈さんからもらった横尾忠則の本を読み始めた。
結構、おれには感動するものがあった。
良くわからない基準で、発表年もまぜこぜにして並べている。2年もたてば人は変わる。だから、直前に読んだ文章と異なることを書いていたりもして、その変化が横尾忠則なのだ、と言わんばかりだ。もちろん、変わらない人間なんていないし、いたら、そんな人間の書いたものを読む気にはならない。
最初、いきなりセザンヌから入る。
なんでセザンヌ? と思わず読むのやめようかというくらい、セザンヌには興味のかけらもない。
しかし、横尾忠則は違うことを言う。
セザンヌはすごい。あいつは、いかに書くかの男だ。いやしくも芸術家なら、何を書くか、なぜ書くか、どう書くか(表現するか)をアピールするだろう。
そしてアイディア勝負に走る。
でもセザンヌは違う。どうでも良い風景画に対して、おそるべき真摯な態度で、繊細に描く。
セザンヌを知った当初、ぼくは彼の絵の中に劇的なものを発見することはできなかったが、それは主題をどのように描くかという問題に転化されていたからである。しかし画面をくまなく観察するとそのタッチは実に激しく感情に溢れているのである。
そこで僕は、はじめてロメールの映画をアテネで観た時のことを思い出す。クレールの膝だ。
クレールの膝/背中の反り (エリック・ロメール・コレクション) [DVD](ジャン=クロード・ブリアリ)
英語字幕というえらく不利な状態での上映だったが、話は誰でも知っている、あの有名な膝の話だ。隣の家のクレールはかわいい女の子(ハイティーンになりかけくらいか)。そこで30男は、彼女の膝を触りたくて触りたくてたまらない。ある日、クレールはボーイフレンドに振られて落ち込んでいる。30男は彼女をなぐさめ、そのついでに、ついに膝を触ることができる。おしまい。
あるいは、僕が一番好きなモード家の一夜(これはパルコパート3だと思うが、ちゃんと日本語字幕があってよかったね)。
モード家の一夜/パスカルについての対談 (エリック・ロメール・コレクション) [DVD](ジャン=ルイ・トランティニャン)
男がぼーっとしていると旧友に出会う。そこでみんなでモードの家へ行く。そこでみんなでパスカルについて話し合う。やはりフランス人の思想的基盤はパスカルだよね。おや、朝になったようだ。
ロメールの映画は、どれもこれもどうでも良い話だ。そこには適当にインテリでちょっと韜晦的な日常があるだけで、特に何か劇的なことが起きるわけではない。
だが、ロメールは、誰よりもハワードホークスを愛している。そこで単にインテリの男女がパスカルについて会話している光景を撮っているだけなのに、めっぽう楽しかったり、さびしかったり、つまり映画を観る幸福に包まれる。なぜなら、ロメールはどのように撮るかという問題に映画というものを転化しているからだ。
そういうことだ。
かくして、横尾忠則の最初のセザンヌについて書いたものがやたらめたらと腑に落ちたので、この本にすっかりのめりこむことになった。
馬が荒くれているキリコの絵(しか知らないが)に代表される晩年のキリコがいかに、形而上のキリコよりも真摯な芸術家であるか、ピカソは2年で他の画家が一生かけてもたどりつけない頂上に上りつめ、そしてそれを破壊して次の2年を始める。だから2年ごとにピカソは素人に戻る。そこでわれわれはピカソの絵を観て、これならおれにも描けそうだ、と思う。おれも描いてみたいなと思わせる。それこそが天才ピカソのもっとも優れた業績なのだ。
そうなのか? いや、そうなのだろう。おれも学生の頃、ピカソ晩年のミノタウロスのシリーズ(エッチングだったような)とか観て、はてこれのどこがあの(泣く女とかあるいは青いころのピエロとかの)ピカソなのだろうかと不思議になり、退屈し、でもこれならおれでも描けそうだと思い、もっとも思っただけだったが、そうやって人々を鼓吹してきたと考えるのは悪くない。
まあ、良い本だ。
というわけで、プログラムを書く場合も、ある機能を実現するというのはあたりまえなのでどうでも良く、どう書くかに注意を払い、2年ごとに異なる言語、異なるパラダイムで書くようにしよう。それがピカソ後に生きるわれわれの務めというものだ。
ハンマースホイの画を思い浮かべる。
単なる部屋の画だ。だが、そこには何かおそるべきものがある。
そのおそるべきものを感じ取る人はたくさんいる。だから、ハンマースホイの画は人気があるのだろう。単なる部屋の画なのだが。そこには神経を直接刺激する直截的なものはない。だが、そこに何かがあることがわかる。
だが、そういう人たちでも、映画についてはそうでもないようだ。相変わらず、映画というものは物語が重要なようだ。あるいはオリジナルの再現性とか。突然、横尾忠則が模写重要と叫ぶのを思い出すが、そういうことではない。
だが、どう書くか問題というのは、1950年代にグールドがさっさとやっていたことだ。楽譜にどう書いてあるか、伝統的な奏法はどうであるか、効率的な演奏法はどうであるか、といったことはどうでも良く、重要なのはどう弾くかだ。だから素材は誰でも知っているバッハで十分(と言いながらも、ヒンデミットやシベリウスのうずもれた曲を復興させたりもする)。
その一方で、奇を衒った演奏はあまり好みではない。カラヤンのジュピターとか、最初はえらくおもしろく感じたが、すぐにうんざりしてしまった(と思うのだが、えらく昔に一度聴いただけなので実はリンツだったりして)。
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