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「Web日本語文化圏、私なりの考察」を読んで、ちょっと考えた。
以前、twitterの良さは140文字という短さにあるのだと考えて、今でもそれは変わっていないのだが、さて、問題がある。
140文字という字数制限があれば、当然、ちゃかちゃか打ってはサブミットという動きになる。
おれの予想だが、1400文字制限のサブミットに対して140文字制限のサブミットは、1:20から1:30くらいに膨れ上がるんじゃないか。1400文字のBlogは3日に一回という人も、twitterなら3日に20から30をポストするんじゃないかということだ。
もし、その予想が正しければ、twitterの負荷は、ミニブログとか言ってはいるものの、ネットワーク上のトラフィックはもちろん、IOに関する転送量も、並みのBlogシステムより大きいものとなる。もちろん、人数が同じだとしてだ。
だから、くじらが浮いたり、アイスクリーム坊やが出てきたりするのも当然だろう、と、つまりシステムの低レベルな制約と考える。
しかし、と、上記の文章の、「ちゃんと必要以上に、余計な情報が、余計なところまで見えないように、いろいろうまく調整、実験して、いい雰囲気をつくりだそうと努力しているのを感じる。」の部分を読んで、もしかして、140文字という短さと表裏一体かも、という考えが生じた。
すぐに飽和する状態だと、あっというまに結晶化するわけだが、そのような状態というのは、可能性として議論白熱など、とにかく言葉のキャッチボールがえらく行われている状態となった、という可能性もある。普段より負荷が上がるというのは、何か、それなりの原因はあるものだ。
そのとき、システムが頑張ってさばくのではなく(その結果が結晶世界の到来となる可能性があるわけだから)、数10分とか、なごみ系の絵を出して落ちてしまったらどうだろうか。強制クールダウンの時間だ。twitterの頑張らなさは、もしかして狙ってやってんじゃないか、ということ。
と、まあ、そういうこともあるかなぁとか。
さて、2個で十分なのか、2個が限界なのか。
プログラマーのジレンマを読んでいて、初めて聞く言い回しに出会う。
ソフトウェアの世界では、ほぼどのような選択をするにせよ、三通りの選択肢の間で苦しい折り合いをつけることになる。楽観論者はそれを「品質のトライアングル」と呼ぶ。悲観論者はそれを「不可能のトライアングル」と呼ぶ。いずれにせよ、ふつうは悪い意味で使う言葉だ。
(中略)
シェーファーは椅子の背によりかかり、ふくよかな腹をさすって言った。「昔からこう言うんだ。早く作るか、安く作るか、うまく作るか。どれか二つだけ選ぶことができる、と」
プログラマーのジレンマ 夢と現実の狭間(スコット・ローゼンバーグ)
おお、思い当たる節がある。日本人は、主語−述語−目的語の3つから、述語と目的語の2つを選択した。賢い言語だ。
ではなく、CAP定理だ。
佐藤先生の2009年5月24日の日記に次の一節がある。
二つ目の誤解はCAP定理は定理という名前がついていますが、別に定理などと大それたものではないということ。CAP定理はあくまでも経験則であって、絶対に3つが同時に成立しないといっているわけではない。
経験則として3つの選択肢を示して、うちたかだか2つが成立するというのは、単に説得のパターンなのかなぁとか。
(他の例を考えようとかしたがやめて読書に戻る)
というわけで、
ブレードランナー ファイナル・カット (2枚組) [Blu-ray](ハリソン・フォード)
あえて言おう、ふたつで十分ですよ、と。
プログラマーのジレンマについて、gotokenさんがtwitterで一般的な用語の説明が本文に入っているので読みにくいから註へまわして欲しいなぁと書いていたり、takahashimさんがはてなで動きがもっさりしているとか書いていて、ちょっとおもしろい。
ってのは、おれはこれはいい塩梅に感じるからだ。
人によって読み方も目的も違うからあくまでもおれの場合についてだが、この手の本を読むのは、過去の興味深い(興味深くなければ読めないよな)事象についての事実や憶測をその時代のコンテキストを示したうえでその土俵内で書いてあることに対して、現時点で読んでいるおれが持つ現在のコンテキストと場合によっては経験したかあるいは想像できる範囲でのコンテキストを比較しながら、そこに語られている内容から普遍性を抽出してそれが現在とどのように関わるかを考察したり、あるいは特殊性を抽出してそのような特殊な状況が発生し得る条件やそれが起きた場合のプラス面マイナス面それぞれの影響とそれが現在あるいは近い未来とどのように関係するかあるいはしないか、計画を作る時のファクタとすべきか無視してもよいか、あるいは招くべきであればそれが必要となる条件といったもの、あるいは避けるべきであればそれを回避するための条件といったもの、こういったすべてを考えることである。したがって、常にコンテキストの異同について情報が多ければ多いほど良い(取捨選択はできても、無いものを想像で補完するのは容易ではない)。
したがって、おれにとってのこのての本の読書とは、きちんと整備されたヨーロッパスタイルの庭園を回遊することではまったくない。その曲がり角にいきなり姿をあらわす奇岩に驚嘆したり、突如池に影を投げる松の枝振りを賛嘆したり、不連続な敷石の上の苔に足を滑らせて体が傾いた瞬間に枝の隙間から投げかかる陽光に目を射られてそこに広がる緑の奥深さに心を震わせる、そういったものである。
つまり、おれにとっては、まさに、この本こそ良き書き方がなされているということだ。
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