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オーチャードホールでKバレエカンパニーのロメオとジュリエット。
音楽がすばらしく、後で見たら、先日のティアラこうとうのと同じ福田一雄が指揮をしていた。この人はうまいなぁ。
が、何より良かったのは、演出で、どうもこのバレエは歴史がたかだか100年に満たないせいか、どうにでも演出の余地があるらしく、これもまた素晴らしいものだった。
或る種あざといとも言えるのだが、たとえば、ジュリエットが毒(復活可能とはいえ、毒は毒)を呑む前にいろいろためらう、そのときに未来にあるであろうロメオとの幸福な情景を背景で見せる(しかし、この演出は一歩間違えると舞台だから嫌でも別の女性を使うことになるし、まったく逆の意味に受け取られる可能性もあるよなぁという点から思い切った演出だと思うが、実に説得力があるのは、舞台前景にいるジュリエットの表現が集中的だからだ)ことで、むしろ喜々として幸福そうに毒を仰ぐあたり(いや、毒を仰ぐ瞬間もそうかは記憶にはないのだが、舞台背景と組み合わせることで強力な陶酔感を表現しているところ)。
その意味で、ジュリエットを演じたロベルタ・マルケスというブラジル出身のロイヤルの人がべらぼうにうまいのだと思う。
表現力というのはなんだろうか? ある人の表現を観て説得力を受けるとか感動するとか、何がそうでないものと違うんだろうか。
或る種のばかっぽさというか、なんのてらいもなく大きく動くことなのではなかろうか。まったくてらいがなく、大きい動きがもたらす表現ということのように感じる。
出てきたときから、14歳の子供以外のなにものでもなく、ちょこまかして、びっくりしたり、よろこんだり、息をのんだり、悲しくなったりする。
最後のシーンでロメオは寄り添わずに死んでいるのだが(これも演出の妙とは言える。全体、熊川哲也の演出は絶妙なリアリティがあるし、メリハリのつけかたが抜群で、マーキュシオの生かし方とかこれまでろくに名前もなかったロザリンの扱いとか)、それだけに見つけたときの悲しさの表現の悲しさ。思わずもらい泣きしそうになってしまうというくらいに、感情移入させられたのは(舞台は再現不可能な生身の人間が実行しているだけに、本来、えらく客観的に観られるものなのだが)はじめてだ。といってもロメオのバレエは4種類しか観ていないが。
熊川哲也が跳躍して、女性を放り投げたり受け止めたり派手に動くのを生で観るのも初めてなのだが、これも素晴らしい。バルコニーの場面(あまり型がないので割とだれる感じをいつもは受けるのだが)で常に次に何が起きるのか期待しながら観るという得難い経験。
舞台は、古臭い感じのようでありながら、右側の建物の無理やりな奥行きの付け方の妙とか、色彩とか、これはこれで実に絶妙。
ふむ。音楽と演出だけでなく、ジュリエットもロメオもマーキューシオも乳母も衣装もみんな良かったようだ。実に良いものを観られた。
プロコフィエフ/ロメオとジュリエット(アバド(クラウディオ))
(プロコフィエフは好みではない(多分、リズム感が合わないのだと思う)が、これは和声が好きなのか、それとも舞台の記憶と共にあるから良い印象を受けるのか)
追記:熊川&マルケスのDVDが発売されるので、予約した。
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