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以前買ってそのままだった本を読む。
冷血殺人 (実録・ヨーロッパ殺人シリーズ)(ジョン ダニング)
ヨーロッパで起きた殺人事件をまったく猟奇的だったり扇情的だったりせずに、むしろ警察視点で犯人を見つけるまでを描くのだが、現実の犯罪だけに推理的な要素のかけらもなく、淡々と犯行と動機が描かれるだけの作品で、これがさっぱりおもしろくないのだが、なんでこんな本を買ったんだろうか?
たぶん、その頃観た強烈な映画(まったく題名が思い出せないが、スミスみたいな人の名前だったような。たぶんパルコパートⅢで観たはず)の印象から、冷血殺人に興味を持ったからだろう。にしても、犯行は冷血かも知れないが、というか冷血だからこそ、機械的に殺人した事例ばかり。日本の殺人事件とはちょっと違うような(福岡のほうの金目当てで家族皆殺しにした事件がおそらく近いかも知れない)。横溝的な要素がかけらもないというか。
で、本題はそういうことではない。
どの事件も最後は、「あまりの事件の冷血さゆえに陪審員は情状酌量の余地なしとして終身刑を決定した」のような感じで締めくくられている点にある。あー、おそろしい。一生を牢獄で過ごすなんて。
でも、そのうち、はて? と疑問に感じた。なぜ死刑じゃないんだ? 極刑を選択したと読めるのだが。
で、さらに何作か読むうちに、合点した。ヨーロッパだから最高の罪は終身刑なのだ。
そこで、最初に感じた終身刑に対する嫌悪感と、死刑ではないことに対する疑問のアンビバレンツに、ふと気づく。
おれは、残りの人生を牢獄に閉じ込められるなら、むしろ死ぬほうがましだ。したがって、死刑と終身刑という選択は、自由か生命かという選択だ。自由がないなら死んだほうがましだ。それが嫌悪感の正体だ。
一方、日本では悪いことをすればするほど死刑となる。つまり極刑は終身刑ではなく死刑だ。したがって、その常識と照らし合わせてなぜ死刑じゃないのか疑問に感じたのだ。
なぜ、日本では極刑が終身刑ではなく死刑なんだ? これは不思議だ。
理由を考える。
制度的な欠陥によるのかも知れない。たとえば仮釈放という制度(さらにさかのぼれば、法治を徹底することがなく、権力が代替わりによって移動する、恩赦という制度、おそらく中国あたりから持ち込まれた)に由来して、終身刑が事実上、完全なる自由の剥奪とは限らないから、その選択が成り立たない。
あるいは、この国(中国や北朝鮮も死刑があるから東アジアと言うべきか(韓国については知らない)。中央と西アジアについては知らない)においては、自由のほうが生命より価値がない。
さらに、制度的欠陥という意味では、捜査、逮捕、裁判が不正なものだというコンセンサスがあるため、殺されてはおしまい、生きていれば正義がなされる可能性がある、ということから、死刑のほうが極刑ということなのかも知れない。最悪であるな。
いずれの仮定においても、アジア的専制を根底に見ることができる。あらためてウィットフォーゲルの慧眼には恐れ入る。
にしても、自由が安いのが理由だとしても制度的な不正が理由だとしても、いやなことだな。
捜査、裁判に不正が入る余地をなくし、自由の価値を教育し、そして極刑を終身刑とすることで、仮に不正ではない誤りにより冤罪が行われた場合の復権を確保することが、肝要だろう。
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