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いよいよ最後になった。1999年5月の『魔法のおなべ』だ。
魔法のおなべは、ウェールズ神話の女神セリドウェンが持つおなべで、魔法の言葉を唱えると滋養あふれる食べ物が無尽蔵に湧き出てくる(日本だと『打出の小槌』といっても構わないわけだし、モヒカンのハンドアックス——これは投げても投げても無尽蔵に湧き出てくる。だって戦闘が終わった後に回収している姿はないからね——と言っても構わないだろう)。この論文の中でエリックレイモンドは、オープンなソフトウェアから金を生み出すのに必要な魔法の言葉は何なのか? を検討し、示す。
この論文は、前とがらりと変わってエリックレイモンドはきわめて慎重な前置きをしている。この論文では『ノウアスフィアの開墾』におけるハッカー文化(=贈与文化)モデルからは(論理展開のために)離れることを宣言し、クローズソースに対して最大限の敬意を払い『伽藍とバザール』以降のオープンソース運動によってクローズソース反対派=FSFの主張を沈めたことで自分のクローズソース側への貢献を示している。
オープンソース開発を支持するための必要十分な議論は、そのエンジニアリング上の成果と経済的な結果だけをもとに展開できる――高品質、高信頼性、低コスト、そして選択肢の増加だ
(別にイヤミではないが、彼らのMSに対する攻撃をおれはフェアではない(あるいはMSが仕掛けるFUDと同程度にフェア)と考えている。したがって、次の点については触れておく。VA LinuxのIPOは、1999年12月だ。でもそれと同時におれは嫌儲でもないので、VA LinuxがIPOでつけた金額でうまくリナスやレイモンドが株を売り逃げていたらいいなぁと願っている。実際、かれらは世の中に多大な貢献をしているのだからそれは正当な報酬だろう)
(ちょっと中断、続きは後で)
『魔法のおなべ』には微妙なところがある。というのは、オープンソースのビジネスモデルについて論じたこれは、他の2本よりも歴史の流れで古びた点が多いのだ。1999年というのは、コンピュータビジネスによっては本当に過去のことなのだ(それに比べると、開発方法やオープンソース参加者の意識のような人間系あるいは文化的な考察がほとんど古びないことと対称的だ)。
この論文は最初に経済価値の2つの価値--利用価値と販売価値という観点から、ソフトウェアは製造業的な材つまり販売価値を持つものではなく利用価値を持つ財だというところから始める。これは正しい。今やソフトウェアそのものの販売というのはほとんど存在しないことからも明らかだ(かってはソフトウェアはシュリンクラップされて販売されていたのだが、ダウンロード販売という形式で残っているにしてもシュリンクラップなソフトウェアというものは、ゲームの分野を除いてほとんど残っていないことから明らかだ)。(4/14追記:これ、最後に書いていることと矛盾している。この(おれが書いている)文章の最後ではiTSに代表される大規模ユーザーベースに対する小額ソフトウェアの販売モデルを一つの解としている。書いているときに全く矛盾を感じなかったのは、規模と額が異なるからだ。どうも、おれにはこの時期の販売モデルとして想定しているのは販売価格数100ドルで事業者は中規模企業以上なのが、現在のモデルが販売価格数ドルで個人を含む少人数事業者であることから、まったく異なるものとして見えていた(る)ようだ。)
まさに、同じころ、IBMがサービスを提供する企業に転身することで大復活を遂げたということにも注意しておきたい。
逆に、マイクロソフトのOSビジネスが(業績は好調なのでわかりにくいが、もし10年前であればWindows Vistaや7によってもっと利益を上げられていた可能性があるのに、多数の企業の利用OSがXPで止まっていることで)停滞していることも、これまでは実際にはOSが売れていたというよりも、ムーアの法則が直線的に続いていたために(今も集積度という観点からは続いているかも知れないが、並行モデルへ変わってしまっているので、メールとブラウザーしか利用しない消費者にとっては、8年前のパソコンと今のパソコンで見た目の速度は変わっていない。ということになぜか気づいている)ハードウェアの買い替え需要によってPCバンドルで同時に売れていただけと考えれば、実際には販売価値ではなく利用価値のほうが重要だった(にもかかわらず売りきりをしていたのが失敗)とみなせる。
そして指摘していることは、ほとんどのソフトウェアが実際には(日本語で書くが)SIによって利益を得ているという事実だ。企業システムには必ずカスタマイズが入る。この部分で収入を得ているということそれ自体が、販売価値ではなく利用価値が売り物だということだ。
次にエリックレイモンドは、ソフトウェアの価値が販売価値ではなく、利用価値であるならば、ソースがクローズかオープンかは無関係だ、と続ける。なぜなら、クローズにする理由は販売価値を高めるためだからだ。しかし、利用価値にあるのならば、販売で金を得るのではなく利用料の徴収で良いではないか。
さて、既にそうなっているとも言える。会員制サービスはまさに利用料金を徴収している。ガチャを回すことで課金するモデルもある(今は)。
でも、これってオープンソースモデルじゃないよね? エリックレイモンドは、利用価値を売り物にすることで、ソフトウェアをオープンソースにして開発費用を外だしするというモデルを示しているのだけれど、時代が変わった結果、価値は「ビジネスモデル」(あるいは課金スキーム)に移ってしまい、そのノウハウがソフトウェアにこびりついているために、オープンにすることはありえなくなってしまったのだ。
・ただし、プラットフォーム、インフラ、フレームワーク、ライブラリを除く。というわけで、DeNAだったか、先日、そういったパーツをオープンにしたが、それは上記から正しくて、課金スキームを抑えておけば、基盤ソフトウェアはオープンにしても問題なし(もし、改良パッチがもらえればラッキー)。
ただ、誰もすべてをオープンにしろとは言っていないわけで、このインフラはオープン、アプリケーション(ビジネスモデル)はクローズというのが、現時点の答えなのだろうなぁとは考えつく。この場合、企業はそれで収益を上げるがオープンソースの開発者は、この企業が直接雇い続けることで報酬を得なければならないだろうし、外部のパッチ提供者は(仮に存在したとして)同様なサービスを独自アプリケーションで行う別企業によって雇われているという形式となるだろう。
というのが現状だが、それはそれとして、エリックレイモンドは次の7つのビジネスモデルを提示している。
・ロスリーダー・市場ポジション確保
オープンソースのクライアントと有償のサーバーソフトの組み合わせといった例を出しているが、さて? グーグルとクロームの組み合わせがこのモデルの忠実な再現というところかな。上記のサーバーのオープンなインフラ+課金スキーマを組み込んだアプリケーション(クローズ)というのはこれの発展形とみなせると思う。
・刺身のツマ
ハードウェアのおまけとしてオープンソースのドライバなどをつける例で、OSXのDarwinがオープンソースになっていることをあげているが、このモデルってあまり意味がないような気がする。ハードウェア会社としては開発したドライバーはサンクコストとして無視できるのでオープンにしたほうが良いというような理屈は良いが、これってソフトウェア開発者にとってのビジネスモデルではないような。
・レシピをまいて、レストランを開け
Linuxのディストリビュータのモデル。このレシピ(=オープンソース)は他でも料理できるけど、うちが一番おいしいよ! 例として出ているのはZope(の前身のDigital Creations)。
このモデルはどうなんだろう? Six Apartみたいに途中で失速したのもあるし、他に例に出ているe-smithのように(多分成功裏に)買収された企業もある。もしかすると、一番標準的なモデルかもしれない。
Titaniumはこれかな。
・アクセサリー
オクトキャットのカップのようなものから、オライリー(本を売る)までが含まれる。で、オライリーはラリーを雇っていることで例になっているけど、うーん、まあ業績に依存してしまうという意味ではパトロンモデルだなぁ。
このあたりになると苦しくなってきている気がする。
・未来をフリーに、現在を売れ
今はクローズだけど、ある程度売れたら(何年たったら)オープンにするよ! というコミットメントのもとで販売利益をあげる方法。
例はGhostscriptなんだけど、全然ぴんと来ない。
誰かやって実効性を証明してみるとおもしろいかも。1ライセンス10000円で1000ライセンス売れたらオープンソースにするよ! という感じかな。
これも苦し紛れっぽい。オープンにする前にクローンを作られるか、オープンにしても喜ばない人が普通に買うだけのような。その意味ではクローズソースと変わらないし。
でも、思い出したが、TokaiDoは、このモデルと言えるんじゃないか?
・ソフトをフリーに、ブランドを売れ
実例がないけど、SunはJavaをこういうふうに売ればいいのに。と書いている。テストスーツを売ったり、互換性認定に金を取るとか。
ブランドの認知にかかる費用がすごそうだとか考えると、SunがJavaにこのモデルを取らなかった以上、今後、実際に出てくる可能性はなさそうだな。
・ソフトをフリーに、コンテンツを売れ
これも実例がないとしている。そのため、書いていることもふにゃふにゃしているが、今なら、AmazonがKindleのソフトウェアをオープンソースにして出す、とかすると、この例になるかな(でもKindleに対する刺身のツマモデルかもしれない)。
これは、コンテンツにDRMがある限り、実現できないアイディア(モデルではない)だと思う。
もしかすると、Xamarinのモデル(基盤のMonoはオープンソースだが、MonoTouchは販売品だ)は、これかもしれない。SDKはコンテンツかなぁ。
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そして最後に、別のモデルを提出している。
・オープン R&D とパトロン制の再発明
この半年くらいだとHerokuが中田さんや笹田さんを雇うとかが、このモデルそのものだな。
ちょっと長いが引用する。
これを左右する理由は2つあるようだ。一つは、こうした企業が自分の市場ニッチでの有力プレーヤーである限り、かれらはオープン R&D からくるリターンについても最大シェアを獲得することが期待できる。R&D を使って将来の利益を買うというのは、目新しくもなんともない。興味深いのは、その期待将来収益が十分に大きいので、こうした企業はただ乗り連中をあっさり容認できる、というこの選択で暗示されている計算のほうだ。
で、もう1つの理由が
かれらは、製品開発と、非公式なマーケティング部隊として、顧客のなかのボランティアたちにかなり頼っている。かれらの顧客層との関係は親密で、企業内外の個人同士の、個人的な信頼関係に依存することもよくある。
つまり、顧客に対して「評判」を高めるためということで、結局は冒頭で捨てたはずの贈与文化に戻ってきているような結論となった。
さて、15年たってソフトウェアはどうなっただろうか?
日本の携帯の課金モデルでNTT-DOCOMOはUSのビジネスモデル特許を取っていれば、もしかして外貨をばんばん稼げたかも知れないなぁ。
というのは置いておいて、携帯のマーケットプレイス(小額課金が可能となった)が、15年前には存在しなかったものだ。サブスクリプションモデルというのもなかったか、あっても個人向けではなかった。
でも、これらとオープンソースは直接的には結びついてはいない。ただ思うに、アプリケーションユーザーにとってはオープンソースかどうかは全然どうでも良いことだ。
とすれば、単純にソフトウェア開発者が低コストで自作のソフトウェアを販売するチャネルを利用できるようになったということ、それはやはり重要なことなのだと思う。というのは、これは(iTSを先駆としてアップルの功績とすれば)、ゆるやかな『オープン R&D とパトロン制の再発明』ととらえられるからだ。R&Dといっても研究者は自分で研究対象(アプリケーション)を探して(開発して)スポンサーを見つけて(iTSで販売して)ということではあるけれど。
本来の『オープン R&D とパトロン制の再発明』は景気の変動で上がったり下がったりするけど(ラリーが失職するということもあった)、トップ30くらいまでの開発者については成立しているように見えるし、そういう意味では普遍性を確保したのかもしれない。
と、そんな感じだ。というわけで、Matzや笹田さんや中田さんのレベルを目指すか、iTSやPlay(だっけな)あと、WindwosPhoneのやつを利用しましょう、というのが就職しない開発者に対するお金の稼ぎかたの結論。一方、起業する開発者については、もしオープンソースで食うとしたら、どういう方法があるのだろうか? レイモンドの7つのモデルのほとんどは単にあげてみましたというものだが、実現性が高い(というか現実に存在する)『レシピをまいて、レストランを開け』ではなくても、突然TokaiDoが『未来をフリーに、現在を売れ』で出てきたとことに何かあるかもしれない(これって、Nariさんの『「寄付が溜まったら本気出す方式」も同じだ)。
とりあえず、インターネットを通じた小額決済が、あまりにも重要なインフラだということだけは言える。
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