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日曜は、新国立劇場で夜叉ヶ池。ずいぶん久々の中ホールだ。少しは空席があったが、ほぼほぼ満員。
香月修という作曲家はおそらく初聴だが、三善晃みたいというか、フランス近代学派っぽい響きのきれいな音楽で、後でプログラムを見たら桐朋の人なのでそういうものなのかなとか思う。
聴いているうちに先日観たフランチェスカダリミニの音も思い出して、後世への影響という点にかけてはワーグナーよりもドビュシーのほうが長持ちしているように感じる。
日本語のオペラはあまり聴かないが、というのは、イントネーションとフレージングが合わないのではないかと疑わざるを得ない点が多いからだが、この作品でも自然なイントネーションでフレーズが取られると、どうしても音が弱くなり、聴き取り難い箇所が多い。そういうところもドビュシーみたいだ。
「性」は「さが」ではなく「せい」なのだな。ただ「尊い」を「とうとい」と歌うのはそうなのかなぁと疑問に感じた(メロディが4音を当てていたから、作曲家が「とうとい」を前提としているのだと思う)。と幾つか引っかかったが(「せい」はそのほうが良いと思うが、訓読みは「さが」と思い込んでいたのでちょっと新鮮だったのだ)全体に美しい言葉が使われている。
舞台は中劇場だからかも知れないが回転させて場面を変える。ちょっとコジファントゥッテみたいな箱庭感があって、おもしろい(おれは箱庭って好きなのだ)。
子守唄は相当耳についていたのだが、今となっては忘れてしまった。おもちゃずくしの2行があって、最後の行の最初が2音節を1音節にする箇所があって、そこでちょっと緊張が高まって、最後が「かざぐるま」できちんと発声できるのは覚えている。
泉鏡花は何度か読もうとして、しかしあまりの擬古文っぷりについぞ読み通した覚えはない。したがって、これが脚色を加えているにしても、完全に1つの物語を通して観た最初だ。
最初、百合さんの着物姿もあって、江戸時代の物語かと思ったら、背広の政治家とか出てきて、明治から大正が舞台と知る。
山沢が「いかにも坊主だ」と数珠を取り出すところのタイミングが実に良い(坊主だとは知らなかった)。
音楽は、爺さんが死に、萩原が村人の嘲笑をものともせずに百合と鐘を守ることにするシーンでの2重唱が美しい。
(ただ、序曲は良い曲だとは思ったが、どうにもNHKの大河ドラマの主題歌っぽく聴こえてしまうのは困ったものだ)
穴熊が太郎を人形と喝破して破壊するところで、はて、この物語はいったいなんなのか? と不思議になる。頭がおかしい美女の妄想につきあうことにした男の物語なのか。
鐘のことは少しも信じていないのに、雨乞いの牛は信じている政治家と村人(信じているのではなく、そういう娯楽ということかも知れないが、それならそれで実にいやな風習だ)というのも奇妙なことだ。とは言え、山沢が数珠を振り立てると一応びびるということは、それなりの信心はあるということなのだろう。しかし、全裸の美女を牛に縛り付けるから龍神が雨を降らせると言っているのに、山沢が身代わりになってもまったくご利益がないことは村人でなくても想像できる。というわけで、身代わり合戦の箇所はなんじゃこりゃという感じだ。全裸を嫌がるということは、実際には背中に鱗があると考えることもできる。
唐突に百合が白雪が牛に乗せられたところを歌うところは、音楽ではなく物語が、まるでトゥランドットが遥か昔の姫のことを歌うところみたいで、やはり妄念の物語なのかなぁとか考えてみたり。
音の美しさから、好みの作品ではあるので、再演したらまた観てみたいものだ。
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