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雅叙園に行くには目黒駅を降りた後にとんでもない坂道を下りる必要がある。
デブサミの日に雪が降ると、何人かは滑り落ちて目黒川にはまって、そのせいで毎年何人かの不運な開発者が失われる始末だ。
これが実に不思議だった。落ちるのがわかっているのに、なぜ坂を下る必要があるんだろう? 少なくとも百段階段を昇りきったあたりは、坂の上に等しそうに思える。細川力蔵はどうして上に入り口を作らなかったんだろう? あれほどのアイディアマンなら、ケーブルカーかロープウェイで御殿におりるように出来たはずだ。そうすれば大和屋の先駆けとしてさらに高く評価されただろう。
と、常々不思議に思っていたのだが、先日、雅叙園に行くことになったら、連れが坂を下りずにまっすぐ進むじゃ無いか。思わずそっちじゃないよ、と言ったら、怪訝な顔をする。
ついていくと、そこは杉野の王国だった。
杉野女子短大は名前を聞いたことがあるし(今は杉野服飾大学短期大学部服飾学科なのか)、ドレメ(ドレスメーカー)という名前も聞いたことがある。が、広大な区画にさまざまな関連施設を並べたドレメの聖地になっているとはまったく知りもしなかった。用がないからだといえばそれまでだけど、通りの名前もまさにドレメ大通りで、両側にずらりと杉野の息がかかった建物がそびえ立つ。なんだここは? と驚いた。一大学園都市じゃん。
(地域教室を開催しているおおきな教会があって、そこのでっかな十字架にも威圧されたけど、それは杉野とは関係なさそうだ)
で、しばらくすると突然アマゾンの看板が立っていて、そこからアリコタワーへの道があって、エスカレータやエレベータを乗り継ぐことで、雅叙園に坂道を下りずに行けたのだった。こんな便利なものがあるとは知らなかった。
が、それよりも、ますます目黒という不思議な場所に魅惑されるのだった。
(特に山の手線−目黒川(環状6号)に挟まれた地帯)
・御殿山から桜並木のあたり
・車で夜中に徘徊するのが楽しすぎる茶屋坂界隈
・突如高い塀に囲まれて行く手を遮る謎の自衛隊の研究所
(環状六号と七号に挟まれた地帯)
・池がいっぱいあるお不動さん
・通りと住宅のギャップが異様な学芸大学界隈
本当に良くわからない場所だ(というか、江戸時代に拓けた場所はだいたいそうだけど、特に目黒は明治−昭和にかけての都市化が遅れたので妙なんだろうな)
ミシンと日本の近代―― 消費者の創出(アンドルー・ゴードン)
(この本がおもしろそうだなぁというところから、ドレメ大通りを思い出したのだった)
元々は山形浩生の経済のトリセツを読んでいたら、ドレメとかミシンのことが出ていたので、ドレメ王国を思い出したのだが、1960年代生まれとしては、確かに不思議かも知れない。子供の頃はミシンがあり、母親が服を作っているのを良く見た。
1970年代を間に挟んで確かに服飾には変化があった。
たとえば、1970年代の終わり(1980年代の初めかも)には、ブリーフかトランクスか論争ってのがあった。なぜそれが論争になるのかと言うと、それまで下着はBVDというブランドに代表されるブリーフか、サルマタが主流だったのだが、ある日気付くと、JOCKEYというブランド(実は福助)のトランクスが大躍進していたのだった。(というように、何かのきっかけでがらりと風潮が変わることがある)
でも、そういうことではないな。
ひとつはジーンズ+Tシャツというどう考えてもミシンの出番がない服装がメジャーになったということがありそうだ。ジーンズの裾上げを母親に頼んだら、針を3本くらい折ってしまって、これからは店でやってもらえと引導を渡された記憶がある。最初にジーンズのパンツを買って貰ったのが1972年頃(外苑の花火大会の出店で買ってもらったのでやたらと覚えている)だから、まさに70年代の始まりだ。
それから服の価格が急に安くなったというのもある。突然、母親が安かったからといって何着も買ってきたのを覚えている。
そして布が変わったことだろう。布が安くなったのだ。
1970年代に親戚の織物工場(紡績工場かも)が倒産したので印象が強いのだが、その頃、国内の繊維に関係する工場がばたばたと無くなっていった。原因の1つは、ニクソンショックというか、対ドルレートが円高基調になったことだろう(このため、繊維(糸とか布)が輸出から輸入に変わった)。技術の進展で合繊が使い物になったということも上げられそうだ。
ストッキングが使い捨てに近かった時代から、洗濯機で洗って再利用可能なくらい丈夫になった。丈夫になり、材料費が安くなれば面積も大きく、便利になる。具体的にはパンティー部分がくっついたストッキングは1968年に売られ始めたらしいが、どんどん丈夫になったということから、完成形になったのが1970年代と思う。(それまではガードルについた靴下止めで留めるストッキングだったということで、留める部分の金具の仕組みがおもしろいなと子供の頃に母親のガードルを見て考えたのを覚えている)。今じゃガーターベルトで留めるストッキングは趣味の世界だ。
布が安くなるということは、こういうことだ。
糸(高い)→布(さらに高い)→プレタ(服に加工した分、さらに高くなる)→ 日常的には買えない
糸(高い)→布(さらに高い)→布を買ってきて服を作るほうがお得
糸(高い)→毛糸を買ってきてジャカード織りくらいは家でもできるけど、木綿の布を作るのは無理
↓
糸と布(輸入で安い)→プレタ(服に加工してもリーズナブルな価格)→日常的に買える
もし、布地ではなく服を買ってきても、その価格が数年前の布の価格とそれほど変わらなければ、よほどの倹約家か趣味のミシン踏みでなければ、直接服を買うほうを選択するだろう。
その代償として、国内の織物工場が淘汰され、ミシンが消えた。
1970年はMILK(さるがに半世紀もやっていると全然違うものになっているんだな、と驚いた)の創業年でもある。表参道がファッションを発信するための場所となった。というわけで、1970年代はキミシマといったオートクチュールではなく、プレタポルテが日本で活動を開始した年代でもある。
洋品店のあり方の変化。
子供が小学生の頃、商店街での聞き取り調査というのを社会科の授業でやっていて、それがおもしろかった。
洋品店が生き残っていて、それは物心がついてからそういう店があることは知っていたが、実際に買ったことはなく、不思議な存在だったのだが、その調査(お店の人への聞き取り)がおもしろかった。
洋品店というのは、基本的にお客が来るものではなく、季節の変わり目にお得意様のところへ、新しい洋服をおさめる商売なのだった。まるで富山の薬売りだ。まだ、旧家が残っているところなら商売は成り立つだろうが、そうでなければ消える運命の商店だ。
1970年前後は巨大団地の出現もあって、首都圏への人口移動が大きかったと仮定する。
すると、あらたに流入した人たちは、どこで服を買うのだろうか? 町の洋品店は彼ら用ではない。とするとスーパーマーケットや百貨店となるだろう。プレタポルテが生まれると、その下位が成り立つ。需要があるので、それなりの服飾が市場に出回る(確か、デザイナーズブランド(本当のプレタ。コレクションを開く)−キャラクターズブランド(2番手。基本的にまねっこ)−その他(名前では勝負しないで、百貨店などに卸す専門)という階層があったはずだが今はどうだか)。団地妻はまだミシンを踏むかも知れないが、単身者用の服飾マーケットが成立する(マーケットが成立することで競争が生まれ、質は上がり、価格は下がる。ますますミシンの出番は減る)。ジーンズショップが儲かった時代だ。
思いつくのはこんなところかな。
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