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川越街道の近くを車で走っていたら、群馬というか明治期の偉人の1人、高山長五郎の高山社跡はこっちという立札を見かけたので行ってみた。富岡製糸工場などと一緒に世界遺産に認定されたのが高山社跡なわけなのだった。
高山長五郎、1848年に18歳で名主となってから、なぜか明治の初年に、蚕の飼い方をいろいろ実験して、どの週(蚕は5だか6週間で繭になる)には温度と湿度はいくつというベストプラクティス(清温育)を1878年に完成させた人である。
名主だから当然のように自分のところの税収を上げることを考えたんだろうけど、結果的に、えらい経済効果を上げることになった。
1人に教えるも2人に教えるも同じだとばかりに、最初は近所の連中に教えていたわけだが、何しろ、どの週には温度はこれこれ湿度はこれこれ、そういう調整を行うためには、蚕室はこういう設計にして、という形式化した成果物の伝授だから、やたらと教育効果が高い。しかも成果が目に見えるから噂を聞きつけて全国津々浦々から教えを乞う人たちがやってくる。
というわけで1884年に高山社という会社を作り(明治17年だから今の会社とはちょっと違う)1886年に息子の菊次郎が跡を継いで事業を継続、1901年には国から認められて私立甲種高山社蚕業学校を開校、それまでの会社の伝習所という形式からますます門戸を開きまくる。蚕業は富国強兵のための外貨獲得のための国策でもあるから、やたらと好条件な学校運営が認められた。つまり学生は兵役が免除されたのだった。
日露戦争が1904年だからまさに軍靴の音が鳴り響いている時代だ。
とすれば、農家の長男は元から兵役免除だから家業で良いとして、まっさきに徴兵される次男坊、三男坊がこぞって入学してきて清温育を学ぶ。
学んで卒業すれば、しょせん次男坊、三男坊だから、家に帰ってもしょうがないというわけで、全国どこでも養蚕したいところがあればそこへ旅立つ。
肝は温度管理なわけだから、最高気温さえ問題なければ(当時だから冷房は無理)日本のどこでも養蚕しまくれる。
というわけで、お偉い先生としてその地で養蚕をふんぞり返って指導して成果を上げる。だいたいそういう場合、逗留先はその地の大農家や名主クラスの家だから、そこの娘とねんごろになって跡を取り、地元の尊敬を集めて楽しく暮らす、という人生設計が描けるのであった、というか実際に描いた人たちを輩出した。
とはいうものの昭和2年になって国の学校の整備が始まると公営化の話が出て来て、どうにも雲行きが怪しくなってくる。
元々、ミクロには一種の慈善事業というか貧農や農家の余計者の救済、マクロには外貨獲得のための産業振興という志でやっているのに、余計な茶々が入りまくる。どうも国家というやつは頭が悪い。えい面倒だ、と廃校してしまった。
というのが、高山社の物語なのだった。
高山社は直接関係ないわけだが、海外へ販路を作りたい群馬の人たちが開いた横浜港によって(群馬-横浜シルクロードだ)、生糸が流れ込まなくなった桐生の人たちが怒ったとか、それにしても、この時代の話はいろいろおもしろい。
しかし、富山製糸工場に比べてだれもいないじゃん。
情報館に入ると、手持無沙汰そうなボランティアの人が声をかけてきたので、繭を使った人形作りをやってみてひよこを作った。繭ってナイフで切ろうとすると意外と切れない。弾力性があって固いからだ。おもしろい。
高山社跡(町中に作った蚕業学校は昭和2年に廃校になるとそのままなくなってしまったので、最初の研修所の地となった高山家を高山社跡として公開しているのだった)はまだ整備中という感じで、とりあえず入口の歴史ある門の修復中だった。
高山さんの家自体は数年前までは何代目だかのお婆さんが1人暮らししていたとかで、1階はサッシを入れて近代風の手直しをした家(門の修復が済んだら、明治期の状態に復元工事をするらしい)だが、急な階段を上って2階へ上ると、そこは蚕室のままだった。
なるほど、温度調整を自在にするために、空気を自由に取り入れられるようにしてあるわ、床に穴を開けて1階の囲炉裏の熱をそのまま蚕棚の間に取り込めるようにしてあるわで、おもしろい。
というわけで、修復前の折衷様式の家も興味深いが、この状態はこれで見納めみたいだ。1階の台所の前に昔懐かしい台形で真ん中にギターみたいに穴が空いた踏み台が置いてあるとか、まだ生活臭が残っているのもおもしろかった。
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