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立ち寄った本屋で何気なく手にしておもしろそうだから購入したカルロレーヴェのキリストはエボリで止まったを読了。
通勤時にぽつりぽつりと読んでいたら3ヶ月近くかかってしまった。
が、さまざまな点から実におもしろかった。
ノンフィクイションノベルだ。筆者が反ファシズム罪によって南イタリアに流刑にされた1930年代の流刑地での見聞を小説としてまとめたものだ。登場人物を類型化しているが故に、明らかにモデルとなったことがわかる実在の人物(たとえば村長)の遺族からは嫌がられているという面もあるようだが、文学をもとにした地域振興(観光地化)のネタにもされているらしい。
まず、反ファシズム罪という罪に驚く。すげぇな。
で、それが流刑だというところにも驚く。殺すか殺されるかではない点だ(とはいえ、運動の中心人物は暗殺されているから、程度問題だ)。
でも翻って考えると、寒村自伝を読むと尾行がついてまわったり予防拘禁されたりはしても、荒畑寒村(だけではなく、宮本顕治にしろ戸田甚一にしても)は普通に戦中を生き延びているし、殺されているのは小林多喜二のような大衆へ影響を与えることができる作家であるとか、山宣のような科学者だから、言論人は生かしておけば世の中が変わったときに社会への保険になるというような考えは共通であるのかもしれない(というか、それが無いのがスターリンやポルポトだった。毛沢東ですら鄧小平は生かしているわけだし)。
というような時代なので、当然、村長は良きファシスト、子どもたちは良きファシスト、で、そこがまずおもしろい。われわれのような良きファシストは……みたいな言葉がふつうに飛び出てくるのだった。
でも、レーヴェが書きたかったことは反ファシストの話ではない。
南イタリアが全然、自分が知っている、暮らしているイタリアでは無いということなのだ。
つまり、ローマ化されていず、キリストですらエボリで止まって、当地までは布教に来なかった、未開野蛮の地、そういう意味だ。
たとえていえば、弘法大師は平泉で止まった(と岩手人が自嘲する)という感覚のタイトルであり、そういう風俗がこれでもかこれでもかと描写される。
延々と続く粘土質の大地、小麦にはまったく向かないにもかかわらずファシスト党の政策により小麦栽培化されたため、常に収穫は少なく、アメリカ移民だけが救いなのだが、それも情勢変化によって無理となり、出ていったものは帰ってこず、帰ったものは朽ち果てていき、みんなマラリアにかかって黄色い顔をして、葬式では泣き女が一晩中泣きながら踊り狂い、独り身の男の世話は村の魔女の役回りで、魔女はたくさんの子供を持ち、どこか遠くのエチオピアで戦争があってもなんの恩恵もなく、ローマから忘れられてときがすぎる(が、税徴収員は仕事に来る)。
それが1930年代だ。いや、イタリアと日本はどうも風俗習慣が似ている。南北は逆転しているが。
彼我の差が大きいのは、山賊伝説で、南イタリアではどうにも中央政府の横暴が極端になると、山賊が生まれて反逆を始めるらしい。最近(と1930年代に書く)はガリバルディの頃で、伝説的な山賊大将がハプスブルクの遺臣と共同戦線を組んで中央相手に大活躍する(が、最後には山賊は必ず滅ぼされる)。しかしそれも困民党のような事例がないわけでもないし、時代的には幕末の天狗党や烏組、赤報隊などを彷彿させるところもある。にしても山賊伝説はめっぽうおもしろい。なんか黄巾賊とか李自成みたいでもある。
というわけであらゆる点がおもしろい。
政治の話も少しある。
村長の親戚の無能な(というよりも19世紀の知識のみの)老医者と、反村長派の学問したことさえなさそうな無知蒙昧でさらにひどい老医者と、最新の医療知識を学んだレーヴェの3者に対する農民の態度(当然、レーヴェに診療して欲しがる)、に対して最初は良いことだと考えていた村長が、反村長派の医者とのバトルに優位に立つために、流刑中の診療行為の禁止をたてにとって親戚の老医者推し、それを拒否する農民たち、手遅れでばたばた死ぬ患者たち、蚊を撲滅するためのプランをレーヴェが出せば握りつぶされと、これまためっぽうおもしろい。
キリストはエボリで止まった (岩波文庫)(カルロ・レーヴィ)
マラリアと反キリスト的な風俗(特に魔女とか)、貧困、借金まみれの農家という点から、ヴェルガの短編集を思い浮かべた。
こちらは19世紀末のシチリアが舞台で、純粋に創作ではあるが、それが40年近くたち、革命と民主化とファシズム化を経ても全然変わらないところに、なるほど、キリストはエボリで止まったのだなと納得してしまった。
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